小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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alwHOMEalw読んでみるalwインフラ(18) 地域のためになくてなはらないものたち

インフラ(18) 地域のためになくてなはらないものたち

張碓橋


点検時作成図面(平成21年2月)<提供:小樽市建設部建設事業課>
点検時作成図面(平成21年2月)<提供:小樽市建設部建設事業課>
張碓の沿革
 明治3年(1870)年4月、開拓使が小樽郡に熊碓・朝里・張碓・銭函の4村を設置したのが張碓村の公的誕生である。それ以前では、 元禄3(1690)年に稲荷神社創立、寛政年間(1789年)に岡田半兵衛が漁場開設、安政5(1858)年に幕臣葛山幸三郎が水稲を開始、文久1(1861)年に定山が万霊塔を建立、同年4月に定山が張碓村野村治兵衛方に滞留、不動尊を安置とあり、それぞれ小樽には意義深い歴史が刻まれている。
 そして 明治35(1902)年に北海道二級町村制が施行され、朝里・熊碓・張碓・銭函の各村は合併して朝里村となり、昭和18(1943)年に小樽市大字張碓村が国道5号を境に張碓町と春香に分割され、現在の区域となる。
<『小樽歴史年表』『北海道の地名 日本歴史地名大系』>

現市道「張碓橋」
現市道「張碓橋」
国道5号
 札樽間の道路の沿革は、安政4(1857)年に銭函・星置間を開いた「札幌越新道」が起源とされ、開削はヲタルナイ場所請負人恵比須屋岡田半兵衛。開削は幕府(箱館奉行)の強制的な指示だったという。続いて時代は江戸から明治に変わり、明治2年に開拓使が設置され本府札幌から各地につながる道路が必要になり、明治6年銭函・札幌間に人馬用の道路が開削される。
 明治12年にはクロフォードの指導により札樽間の馬車道がつくられたが、これは翌13年に鉄道に替わる。
 以後明治38年には日露戦争の只中で、敵の視界を避けるため、龍徳寺前より深く山背を迂回し毛無山、朝里平野、石倉山を越え張碓平野へ出て銭函で旧道に連絡する「軍用道路」が開削された。この道路は大正9年に国道に編入されたが紆余曲折甚だしく廃道に等しかったという。
 昭和3年には、札樽両市の発展と自動車交通の発展に伴って、測量が行われ、昭和6年に政府の失業救済工事として札樽間道路の改良工事に着手した。張碓橋が竣工したのは昭和8年6月、そして昭和9年1月に小樽銭函間改良工事が竣工する。この道路が「国道5号」と命名されるのは昭和27年12月4日である。<『後志の国道』>

竣工年度が刻まれている
竣工年度が刻まれている
張碓橋概要
「昭和8年6月竣工、形式バランスドアーチ、径間72m、幅員7.5m、橋体鋼材206.71トン、勾欄金物35.25トン、請負函館船渠株式会社。橋脚及び橋台は冬期間施工により防寒小屋を設置し、ボイラー、ストーブ及び炭火を以て温度を保持し鉄筋混凝土工事」<『後志の国道』>

土木学会選奨土木遺産認定プレート
土木学会選奨土木遺産認定プレート
変遷
 昭和46年に札幌オリンピックを控え、暫定2車線の高速道路が竣工し、この際に張碓大橋が完成、同48年札樽自動車道に昇格、同49年4車線化が竣工した。
 次に、昭和54年国道5号の路線改良で張碓付近のコースがショートカットされ、新たな張碓橋が完成するが、翌55年には元の張碓橋は市道に認定され、以後生活道路に変化している。したがってこれ以来、「張碓橋」というのは国道と市道に架かる2つが存在することになる。
 さらに一般国道5号の全線4車線化が整備され、平成12年4月に張碓橋の架け替えが竣工する。

昭和8年7月 函館船渠株式会社製謹プレート
昭和8年7月 函館船渠株式会社製謹プレート
土木学会選奨土木遺産認定
 この選奨土木遺産制度は、先人が築きあげた土木施設をあらためて見直し、後世に伝え、まちづくり、地域づくりに活用するために平成12年度から土木学会が始めた。平成18年度には「張碓橋」が認定、理由は「昭和初期の札樽国道開削の歴史を伝える唯一の土木遺産」「北海道最初の鋼製プラット型バランスドアーチ橋」とある。小樽ではその他「小樽港北防波堤」(平成12)、「奥沢水源地水道施設」(平成20)、「小樽港斜路式ケーソン製作ヤード」(平成21)が認定されている。

管理者:小樽市建設部建設事業課
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