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まちづくり運動から学ぶ(41)

第7回ポートフェスティバルインオタル
石井 伸和



<ふぃえすた小樽より>
<ふぃえすた小樽より>

梅原洋介とスポンサード
 第7回実行委員会の人事には、それぞれの部長に若手を、そしてサブにロートルを当てた。
 既述の建築家集団ハビタの一員で、札幌で設計事務所を運営していた梅原洋介氏が、最終局面を憂えて積極的に第7回のポートの企画に加わってきてくれた。ポートの実行委員会が社会的な力を発揮するためにネクタイ族の私を実行委員長にあてたことに引き続き、次の武装は企画内容だった。いわば運河を保存してどういう方向に再生させていくかを表現する企画だ。具体性もなく「ただ若者が元気に」というイメージでは緊迫した社会に具体的な一石は投じられない。運河問題は現在継続している横路知事を調停役とした五者会談で政治的決着がつくだろうという見方は関係者の認識に共通していた。その五者会談の背景の中で開催されるポートで、「俺達は運河をこうしたいんだ」と具体的な表現をすることは、極めてタイムリーだと理解した。そういう大人社会の力学を知る梅原が登場したのは、山さんや格さんらの差し金だとも理解できた。
 私はただそういう戦略の考え方に驚くほかなかったというのが正直な気持ちだった。「やっぱすげぇ」と感心するおどけた実行委員長だった。
 梅原の企画の組み立ての遂行態度は厳しかった。いや厳し過ぎたともいえた。「なんでそんなこともわからんのだ」「そんなことあたりまえだろ」「なにをあまいこといってるんだ」式で上から目線100%のスパルタだった。彼は今回の企画のメインを「ウォーターフロント計画」に焦点を絞っていた。まさに運河を保存再生させるのに最も相応しいものだと私には思えたから、企画内容には賛同した。
 が、ここでも若手スタッフはひるんだ。今までポートには1回目以後、一切関わっていなかった梅原という存在が吠えることにひるみ、あるいは抵抗的な顔になった。
 それに構わず、次に梅原が仕掛けたのはスポンサードだった、つまり今までとはスケールの違うリアリティある企画を演じるには、いままでの枠組みでは考えられない手続きや資金が必要になる。これに企業の大型の広告協賛を引き出すという手法だ。大型協賛となると、若い実行委員にとって「ヒモつき」という首に縄をはめられた感を伴った。これまでは「手づくりの祭り」という形態で、小さな広告集めやタオル・Tシャツ販売でコツコツ稼ぎ、出店の場所代、骨董販売で賄えてきた。この頃から拠出されはじめていた地域振興の補助金は一切もらっていなかった。それなりの土壌で自立していたのに、背伸びするから金が必要になると文句が出た。ましてヒモつきはごめんだと沸いた。
 結果的に格さんが「今年の政治的緊張状態を理解してほしい。だから過去6回の踏襲や馴れ合いを捨て、石井を実行委員長に押し、梅原を企画部長にしてきたんだ。過去6年が運動だとすれば今年は勝負なんだ。緊急を要する今、踏襲だの馴れ合いだのにこだわらず、俺たちには何ができるのか、できることを全てやる覚悟が必要じゃないか。怖いのは赤字だけなら、俺が責任をとるから心配するな」でまとめた。

24
 2001年からアメリカで放映されたドラマ『24』はテロ対策ユニット(CTU)のジャック・バウアーが主役だ。アメリカにテロが仕掛けられ多くの国民が犠牲になることをくい止めようとジャックが活躍する。その活躍の手法はワイルドで規則破りにならざるを得ない。なぜならアメリカが経験したこともない恐怖であり、解決したこともない問題だからだ。だからジャックが決断する方法を常にアメリカの組織や規制が邪魔をする。邪魔する目的は組織の秩序存続と、それにぶら下がる個人的な欲や感情だ。テロが実施されればそんなものは吹き飛ぶのに、そういう邪魔者にはテロの怖さすらも分からない。分からないからエゴがどうしても優先される。
 山さんや格さんの説得に一度や二度は理解しても、予想しない出来事が起きれば、また自分の殻に閉じこもり、その小さな殻を尺度にリアクションを起こす。本来「公僕」である政治家や行政マンですらそうなのだから、有象無象に集まった若者がそうなっても不思議はないが、公の危機や公の勝負の場面で、大所高所の視点を持てないことは持っている者には辛い。
 そもそも規制とは、現状を維持するためのものであって、現状が根本から覆るような危機には機能しない。まして規制や組織の秩序にぶら下がる輩の陰謀は見るに堪えない。『24』はそういう大所高所の視点を持つわずかな人々に支えられてジャックが現場で命をかける。ちなみに、このドラマはテロを仕掛けられるアメリカの体質をも批判しているところがミソだ。

青年会議所
 ポートの実行委員長は様々な団体に挨拶に行かなければならない。当時小樽青年会議所理事長であった山本一博氏に挨拶するため、私は山本氏が所属する北海道通信電設を興次郎と訪ねた。酒一升を土産に持参し、挨拶を終えると、「ねえ楽にしてよ。わざわざ挨拶なんていらないのにありがとうね。僕が酒を好きなこと分かってるみたいだね。君らは本当に頑張ってるよ。僕らに君らがやっているようなことできないし、端からみていてヒヤヒヤするけど(笑)、ちゃんと見て敬意を払ってるよ」とニコニコしながら気さくに語りかけてくれた。裏表もなく侠気と優しさを醸される理事長だった。
 私も22歳の頃から青年会議所には同業の先輩に勧誘されていたが、ポートをやっていた中で、会議所の活動に参加することは無理に等しかった。同友会の仲間(青懇)が半分くらい加入していたが、「石井はJCに入るべきじゃない。もし入るなら3つの選択肢しかない。第一に入ってすぐ退会するか、第二に入ってもずーっとお客さんでいるか、第三に入って徹底的にことを起こすかだな。第一・第二はほとんど意味がないから、結果的には第三の道しかない。今石井はポートという組織の中で大事な役割を担っているのだから、必然的に第三の道も時間的に無理だ。だから入るべきじゃない」と諭されてもいた。そもそも自覚もしていたし、社会人になって以来、北樽児という団体をつくり、同友会で青年部をつくり、2度目からポートの創設委員の一人にもなってきたわけで、自分の志や意思で新たな組織をつくってきた。そんな者が既存の伝統ある組織で黙ってついて行くなどという気持ちになれるはずもなかった。だからJCがこの街で活動する内容については淡々とした視点で認識していたに過ぎない。しかしJCの一部には、経済人でありながらポートのようなわけのわからない活動をしている私に偏見を持たれる方々もいた。
 これは当時から間もない5年後の後日談だが、私の会社が危ないという噂が広まった。もちろん事実に近かったが問題はそこにはなかった。当時同じくサマーフェスティバルというイベントに関わり、青年会議所の要職にいた人物から呼び止められ、「石井君、お前の会社大丈夫か?危ないという噂が流れてるぞ。こんなことしていていいのか?」といわれた。私は事前に、この噂をこの本人から聞いたという友人を知っていたことから、「その噂をつくって流してるのはあなたじゃないのですか?」と逆質問したことを覚えている。彼は顔を真っ赤にしてカンカンになって「お前何を言ってるんだ。出て行け!」と散々な剣幕だった。
 また、当時から15年後には、私の会社に何度も出入りする青年会議所会員がいた。それはあるイベントを私と一緒に進める仲間だった。その彼が青年会議所OBにこういわれたという。「最近よく石井さんのところに出入りしているようだけど控えた方がいいよ。危険だよ」というのだ。助言者と私は一度も話をしたこともないのにだ。だが私が危険だという意識を持たれる背景は想像できた。
 つまり私が20代を通して運河保存運動にあけくれていたことを、体制に逆らったととらえての助言である。その人の目から見て危険だというに過ぎず、意にも介してはいない。無論、助言された青年会議所員もあきれ顔で意に介さなかったし、私と青年会議所員の関係は、これ以後、より以上に親密にさえなった。
 こういう下世話な噂や認識は、私個人が火元になった訳ではない。常識では街の若者の代表といえば青年会議所と決まっている。ポートをしていた私も20代で多くの会社を回っていた際に、何度も「君も青年会議所?」と聞かれた。ポートのような公的な新しい活動をするのは青年会議所だとする常識が市民に浸透していたということだろう。
 ところが小樽の場合、同じ若者でも何度も何度もマスコミに取り上げられたポートは異質だった。だから一つ街の中で母屋の青年会議所を差し置いて軒先で暴れるポートは、当然母屋に快く思われない。
 このように、危険、異質、ヤンチャなどという認識は、我々も充分噂で自認していた。だから山本一博理事長の表裏のない優しさは心打たれた。こんな人が街を仕切ってくれたら、こんな小樽にはならなかったのにと思った。
 ちなみにこのような不遜とも受け取れる自分を教育してきたのは母親であった。「男として噂を信じるようなことはするな。その噂が気になるようなら本人のところへ直接聞きに行け」と子供の頃から言い聞かせられた。また青年になって坂本龍馬に心酔し、「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」という姿勢でいこうと鍛えてきた。さらに「噂と情報を混同してはいけない。不必要と必要という大きな違いがある。目に入り耳に聞こえるものは噂とノイズと情報しかない」と情報を研究する仕事で仕分け悟ってきた。
 私の会社が危ないという噂を流した者も、私を危険だと助言した者も、それを意に介さない不遜な態度の私を見て、さらに気分を害しただろう。出る杭を打とうとしたが一向に引っ込まないのだから。このときは母親や龍馬や仕事から学んだ自分で耐えたに過ぎないが、今はそれに加えて、引っ込まない自分を新たな潮流の代弁者として見せつける公的な力学にもなったと思っている。

地先の怪
 次に地先(会場とする運河周辺)の挨拶に回った。運河沿いの食糧事務所の裏のアパートの一室を訪ねた際、まるで待ち受けていたかのように、どこかの組員がそこに7人いた。挨拶をするかしないかのうちに、「今年は俺達も参加するぜ。上にも話がついてるんだ」とカマされた。私は極めて冷静に「参加するとはどういうことですか」と聞いた。「お前らの祭りの出店を仕切るってことよ」ときた。「それは今までちゃんと秋川親分と話し合い納得されて四つ角のみに出店するという約束だったはずですが」と返した。「うるせぇ!ガタガタいうな!」ときたので「ガタガタ言ってるのはあなたじゃないですか。ちゃんと話をしましょう」と一歩も退かなかった。
 暫くゴチャゴチャというヤリトリが続いたが、らちがあかず、とりあえず引き上げた。
 秋川親分には格さんが連絡をとってくれた。ちゃんと話が出来ているはずだという。もしかしたら同系の鉄砲玉か、あるいは埋立派の陰謀かということも浮かんだが、「まあ、できるだけ誠意をもってもう一度交渉してきます」ということで一人で出かけた。ところがその部屋はもぬけの殻だった。以後何度も訪ねたが同じだった。キツネにつままれたような出来事だった。正直あれ以来、胃が痛み睡眠不足に陥るほどだった。

小樽博の邪
 それよりも驚くような出来事が控えていた。私は会場の使用許可をいただくために恒例の土木現業所(北海道の出先機関)に行った。すると「今年は駄目ですね。使えません」という。顔面蒼白とはこのことだ。「何故ですか」と聞くと、「運河周辺は既に小樽博実行委員会に貸しています」ということだった。なんということだ。我々にとって小樽博は賛成でも反対でもなかった。むしろ行政側のデモンストレーション程度にしか考えていなかった。だが主催の中身で重きを占めるのは小樽市に他ならない。そこまで考えて「圧力」と悟った。そして調べてみると、小樽博で運河周辺を使う意図が不明だったことからそれを確信した。
 何度も何度も行政に押しかけ、何とか又貸しという形式で事なきを得たが、ここまでやるかとあきれた。
 ちなみに小樽博とは、昭和59年6月10日から8月26日まで勝納埠頭とその周辺を会場に、小樽市・小樽商工会議所・北海道新聞社による共催で開催された。「この博覧会はいうなれば港湾開発型の博覧会である。独特のロマンを感じさせるポートタウン小樽のイメージ、そして北海道の窓としての特徴を、いかに演出するかがポイントだった」と企画をした乃村工藝社が晦渋な文章で伝えている。そもそもの発端は、小樽選出の代議士箕輪登氏が持ちかけた話だという。運河問題で混乱真っ盛りの中でのイベントだった。今思えば、この年より数年後に開催されていれば、小樽が観光都市としてデビューしていくスッキリした方向性をイベントに盛り込むことができただろう。しかし実際は混乱期の中で、港湾開発型の博覧会とはいうものの、実に曖昧とした内容に終始した感が免れない。
 また箕輪代議士とは恒治さん(佐々木恒治氏)に連れられて訪ねたことがあり、運河保存運動が野党の差し金かどうかを、私を謁見することによって計ろうとした政治家だ。箕輪代議士は既に運河の五者会談にもリーダーシップを発揮しようと介入したが、その渦の激しさから五者会談とは距離を置いていた。中央集権が武器にした利益誘導型政治の閣僚では、地方主権型のプログラムを理解することは困難だ。だから地方博ブームの中で、いくばくかの補助金を小樽に落とそうというけなげな企画という認識を持った。だから賛成でも反対でもなかった。
 この小樽博の主催者がこぞって使いもしない運河周辺を事前に借りていた。毎年恒例のポートフェスティバルがあることを知ってのことだ。実に大人げないやり口だ。思えばこれまで、埋立派は随分と大人げない戦術を積み重ねてきた。守る会事務局長への圧力と行使、保存派からの同一テーブルでの話し合い提案の拒否、議会での強行採決、署名簿の無視、問題解決前の工事着工、そしてポートフェスティバルへの圧力、公金を使用しての埋立派ビラ作成配布など数え上げればキリがない。

生活
 毎日会議が深夜まで続いた。若者組からの文句、企画の強引な進め方、スポンサードの困難さ、チンピラのいやがらせ、行政からの圧力など問題山積みの第7回の準備は続いた。自分の部屋は眠るためしか使わなかった。ふぃえすた小樽のスタッフが自由に合鍵を持って編集のために使っていた。来る日も来る日も会議会議で、身体もボロボロになっていた。暇無し胃が痛んだ。毎週日曜日に社会人ラグビーで汗を流していたが、これもやめた。実に不健康な日々が続いた。
 私の会社は火の車だった。吹けば飛ぶような財政状態を横目に、矢は放たれたんだから向かうしかないと孤独の中で何度も何度も決意宣言した。よくこの馬鹿息子を放し飼いにしたものだと今は思っている。
 会議終了後、ハビタの駒木氏がよく一緒にヴィクトリアステーションに遅い食事を付き合ってくれた。この瞬間は孤独から解放された。梅原の意図を解説してくれ、今後の進め方のアイディアを授けてくれた。
 さらに「困った時の格さん詣」と、これまで自然に頼っている自分がいて、頭がパニくると格さんに整理してもらいに行った。
「石井なぁ、それはだなぁ、つまりこういうことなんだわな」と独特の節回しで通訳してくれた。「あっそういうことか、ならこうすればいいですか」というと、「そうよ、それでいいのよ」と背中を押してくれた。