小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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COLUMN

アナログをふり返る
編集人 石井 伸和


時間と空間の法則
 先日テレビで、どんな番組で誰が言ったかは覚えていないが「過去が今で、今が未来だ」という表現を聞いた。意味深なのでメモっておいた。「過去があるから今があり、今があるから未来がある」という自然界全てに通じる連続性をいうほかに、「過去の意図が今をつくり、今の意図が未来をつくる」という人間界固有の時間的連続性も語っているようだ。
 これが時間の法則を示すものなら、空間の法則を示す言葉に「極楽は西方のみかは東にも北道さがせ南にあり」と一休禅師はいう。人の幸せは東西南北どこにでもあることをいい、北道を「来た道」に、南を「皆身」にかけているともいわれている。どこにでもあるということは、あなたが歩んできた中にもあるし、誰にでもあることをいい、要は心の持ちようだと説く。金を欲しい人は金を得るまで幸せにならず、異性を欲しい人は異性を得るまで幸せにはならないが、そんな俗な選択肢以外にも幸せを覚える機会はいくらでもあって、それらは自らの心の中に幸せを感じる受信機がなければ達成しないという人間界固有の心の空間的連続性を諭している。

歴史に学び世界の視点で
 一人の生身の人間にはあまりにも気宇壮大な心持ちであるが、今言った人間界固有の「時間的連続性」と「空間的連続性」の視点を使命に置き換えると「歴史に学び世界の視点で判断せよ」ということになる。もっと俗っぽくいえば「お前のその考えは歴史や世界に照らしても恥ずかしくないか」と問えばいい。

アナログの理想的視点
 したがってアナログを生きる理想的な視点は「歴史と世界に照らす」ことになろう。歴史は日々紡がれ、世界も日々変化している。不易流行というように、変わるものと変わらぬものがあるが、変わらないものを判断の軸にすればいい。そこで、歴史は変わらないから「温故知新」という格言が生まれ、自己の足下も簡単に変わらないから「脚下照顧」という格言が生まれた。
 壮大な時間では「温故」つまり「歴史」に学び、壮大な空間では「脚下」つまり自己の足下を顧みれという。だから「歴史と世界に照らす」ことを問うなら「歴史から何を学び自己の足下をどう見るか」と投げかければいい。この視点がしっかりしていれば、日々変化する事実に自己の真実を投影することができる。つまり「公」と「私」のバイパスだ。

現実
 真実と事実の理想型はこうだとしても、現実はそうではない。そうではなくしているのが事実を織りなす人間達の動機だ。「もっと金が欲しい」「もっとモテたい」「もっと有名になりたい」「あいつが憎い」「あいつが怖い」などの動機で事実が紡がれている。逆に「金を持ってどうする?」「モテてどうする?」「敵を討ってどうする?」「怖い者を排除してどうする?」と問えば何も帰ってこないほど現実は私的だ。多くが未来や世界、いわば「公」のことなど考えてはいない。いわゆるアナログの理想的視点? そんなものが動機にはなっていない。現実をそう悲観するのが「性悪説」で、「人は何をしでかすかわかったものではない」ので複雑な法律が生まれ、手なずける宗教が生まれた。
 一方で「性善説」という見方があって、「人は善で共鳴するから楽観的でいこう」という。
 しかし「歴史と世界に照らす」動機や「人は善で共鳴する」と信じることを諦めたら、人間の存在意義すら失せる。たかが「私」であっても、されど「公」を展望する心のバイパス工事を怠ってはいけない。