小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(31)

第4回ポートフェスティバル
石井 伸和


ポートフェスティバル会場風景<写真提供:志佐公道>
ポートフェスティバル会場風景<写真提供:志佐公道>

第4回ポートフェスティバルインオタル実行委員長 ~原田 佳幸~
 昭和56年「生きる!活かせ!甦きろ!」をテーマに開催された第4回目ポートフェスティバルでは、出店の応募が220軒を超えたことにより、対岸である市道港線にも出店ゾーンが拡張された。露天商との交渉では、DAX(原田)と大谷が出向いたが、「露天商側の面子が保てない限界」ということになり、角角の4隅にのみ認めることになった。
 ポートのスタッフは祭り当日ともなれば300人にもふくれあがっていた。そして事前の会議に参加する若者も40人を超える大所帯となった。ここでDAXが危惧したのは、世代間の意識のギャップである。地域社会にアンテナを張って手探りで創りあげてきた創設メンバーらと、既に出来上がった企画のマニュアル習いという20代の新規参加の若者層には大きなギャップが存在した。特に若い層には運河保存という政治的意識が希薄であったことから、DAXはこのギャップを埋めるため最もわかりやすいモデルとして、石塚らが描いた「運河公園」の絵を大きく掲げることを提案し、北海製罐倉庫の壁に縦5m横10mの大きな紙を貼り、そこに拡大版をスタッフみんなで描いた。難しい政治的なプロセスや駆け引き論議より、この絵を見れば、「運河がこんな風になればいい」と思う者が多いはずとDAXは確信した。
 また大所帯の体制維持のためにDAXは事務局長の吉岡に対し、「お前は言いにくいことをズケズケ言う嫌われ者になってくれ」と事前に頼み、吉岡も納得して了解した。その吉岡ら事務局員の厳しい号令により、実行委員長のDAXは金銭的・企画的な問題はまったく感じることなく済んだという。しかし当の吉岡は祭りの現場で積もった鬱憤が爆発した。ポートは参加者全員がスタッフという暗黙のルールを持っていた。夜になると出店の面々が本部に電球を取りにくる慣わしで、出展申込時の説明書にもそれは明記していたが、角に配置したプロの露天商が「なぜ電球を付けにこない」と本部に文句をいいにスゴんできた。これに鬱憤の溜まった吉岡が対応し、仕舞には両者胸ぐらをつかむ一触即発状態に緊張した。20代前半の若者が300人もの烏合の衆を規律でまとめる役回りである。時代の緊張感が吉岡という若者を大人の切羽詰まるような境遇においた。たとえイベントとはいえこのような疑似体験は貴重だ。吉岡は祭りが終わって間もなく胃潰瘍で入院した。
 この昭和56年当時には、小樽はまだ観光を意識した投資はみられないが、ポートの観客には観光客らしき存在が混じりはじめていた。もちろん運河問題のマスコミ報道を通して「小樽へ行ってみよう」という背景があっただろうことは想像に余りある。そこから反省会でスタッフの中から、小樽に初めて来る人々のために「会場図」をつくろうという発案も出てきた。
 一方ネタミソネミかイジワルか、本部電話に何度も何度も無言電話がかかってきた。これは第5回目も同様に続いた。相手が無言ならこっちも無言、電話代は掛けた方もちということで、受話器をとったまま置いて本部任務に就いたこともあった。

ポート内部の世代間議論
 第4回実行委員長のDAX(原田)が危惧していたポートスタッフの世代間ギャップを埋める会議が、第5回準備において何度も開催された。DAXは言う。「この小さな街小樽の中にさえ、時代錯誤の老人がいて困る。だからポートが誕生して若者の出番が生まれた。そのポートも4年経ち、ポートの内部にも、これまでの経緯を知らない若者がどんどん増えてきた。それはポート全体としてうれしいことだ。これが商売なら数字が増大して結果が出るのだから万々歳で済む。しかしまちづくりの要諦は運動の成果であり結果ではない。そこで、俺達のような最初から社会とかかわって手探りでつくってきた層と、入ったら形が出来ていた層にギャップがあるように思えてならない。むしろ俺達創設層が一斉にリタイヤした方が、新たな層が自ら社会との関わりをつくっていけるのではないかとさえ考えた」これが口火となり、「創設VS継承」議論が始まった。その方向性は、新しい層に自立を促すことから始まった。
大橋 哲(継承側):やりたい気持ちはある。しかし責任感を予想すると耐えられる自信がない。
興次郎(創設側):これまで駆けつけてきた4回は奪い取ってきた。これからは与えることも考えなければならない。違う言い方をすると、俺達は社会の中から運河に馴染むものを無理矢理検索して組み立ててきた。君らが今度は組み立てられたものを社会に馴染ませる役割を担うんだ。それは過去を持つ俺達より、君らの方がはるかに可能性がある。
倉田一宏(継承側):何か壁が大きいって感じるんだ。与えられた瞬間、燃えるより責任感が先に来る。これを超えるほどの奪還欲が欲しいんだ。
原田(創設側):それだよ。奪還欲さ。もっときれいにいうと創造力さ。守ったり維持したりするのではなく、自分達で何かを奪い創造していく志なんだ。そこまで気づいてるってことじゃないか。
大橋・倉田:……
興次郎:お前ら、彼女とキスしたことあるのか? する直前まで自分の気持ちの昂ぶりってのがあって、それがたかがキスだけで晴れるか? 俺達だって運河を手元に引き寄せはしたけど、こんなんじゃまだまだ運河保存再生なんて遠く感じてる。でもそれはキスしてはじめてわかるんだ。だからお前達にも自発的にキスする体験をしてほしいんだ。
大橋:…いや、そこまで俺達にわからせようと努力してくれる気持ちは本当にうれしい。でもそれでも首を縦にふらない俺達を見てふがいないと思わないかい。俺なら、もういい、お前達にはもう頼まないっていいたくなるよ。
倉田:大橋さん、俺は思うんだ。来年だって新しい発想でもしかしたら何かを奪い取れるんじゃないかって。もちろん具体的なものではないけどね。
興次郎:よし! 倉田は既に実行委員長として充分な発言をしたよ。 
大橋:わかったよ。倉田、お前やれ! 俺は全面的にお前をバックアップする。 
 キスして初めてわかる奥の深さを興次郎は説いた。知識だけの議論ではなく体験による智恵がそこにあった。権力も金力も立場もない若者が大人に喧嘩をふっかけ、勝ち目があるはずもない戦いの中で、キスする体験が新たな風を社会に起こした。興次郎はこのダイナミズムのおもしろさを語った。継承側の大橋も倉田もこの風は体験しているから、気持ちがそこに引きずられていった。

情が移る
 また原田実行委員長時代に一人の若者が執行部に入った。山川広晃氏である。彼は原田との面談でこう発言している。「自分は運河にはなんの興味もありませんが、スタッフになれますか?」
 それに対し原田は「ポートは誰も拒まないよ。ただし、少しは君も知っていると思うが、背景や経緯をたどれば、俺達ポートスタッフは、外からは運河保存派とみられているんだ。だから君がスタッフになった段階でそう見られてもいいのであれば構わないよ」
 第6回目の実行委員長となる山川は「最初は運河には興味がなかったけど、情が移った。好きでも嫌いでもない運河だったけど、子供の頃から見てきた運河で、自分が実際に祭りをやってくると気持ちが変わってしまった。それは先輩に諭されたからではなく、自分がその現場に立って何かをしようとするのに、現場を愛せなければ何をしてもシラケテしまうから、ごく素直に自然に好きになってきたんだ」と発言している。
 社会の化学反応の前に自らが化学反応した事例だ。興次郎がいう「キス」と山川がいう「愛する」とはこの場合同義である。理屈ではかなわない戦いに情による化学反応で優勢に持ち込むということだ。だから社会は人生はおもしろい。