小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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コラム

交流視点で小樽を見る〜小樽の三大交流〜
編集人 石井 伸和


交流視点
 北海道は日本のアメリカといえる。明治以後全国各地からの移民で形成されてきたからだ。しかもその玄関口が小樽港だから、人も物も小樽で攪拌されて北海道中へ散った。だから小樽は紛れもなく交流都市であった。
 何かと何かが交流して新たな何かが生まれるのは歴史の必然であり醍醐味でもある。また新たな何かは交流なくして生まれもしない。このような交流視点で以下小樽を見てみたい。

ビジネスモデル
 江戸時代には近江商人が肥料としての鰊を求めて小樽に拠点を設けていたが、その交易船である弁財船に乗り込んでビジネスを学んだ主に北国(北陸地方)の人々が独立して「北前船」ビジネスを開始する。石川県加賀市瀬越町の広海二三郎が明治22年、同郷の大家七平が明治24年に小樽に倉庫を建設する。この倉庫建設を見て石川県加賀市橋立町の西出孫左衛門と西谷庄八という親戚関係の二人の交流の中で、おそらくこんな会話があったと思われる。
西谷:「近頃小樽には多くの北前船が乗り入れているようだ。広海と大家は既に自分の倉庫を建設したが、倉庫を持たない多くの北前船の荷を預かり販売するというビジネスがあってもいいのでは」
西出:「なるほど。それはいい。人様の荷を預かるには企業秘密だから外から見えないように倉庫に囲まれた中庭をつくり荷ほどきをしよう。また俺たちの倉庫に保管・販売を委託する船がわかるようにシャチホコの目印も掲げよう」
西谷:「それはいい。じゃ俺は預かった荷の販路開拓をしよう」
 こうして明治27年、倉庫業という新たなビジネスモデルを実践する小樽倉庫が建てられた。北前船主固有の倉庫ではなく、多くの北前船の荷を保管・販売する倉庫業の誕生である。以後このビジネスモデルが小樽の基幹産業となり、昭和初期までの小樽黄金時代の立役者となる。

工学モデル
 小樽港北防波堤は明治41年に完成するが、この偉業は本邦初の日本人だけで築造した防波堤であり、堅牢にして105年経過した今日も機能を果たしている。設計者は廣井 勇、札幌農学校二期生、後、自費で渡米し、橋梁設計技術者となり、アメリカでは橋梁工学の教科書を著作する。「調査なき計画は画餅」を信念に多角的な視点での綿密な調査を行い、新素材コンクリート開発、コンクリートブロック斜め積み、100年継続によるテストピースなどの技術を開発した。これらの知識と知恵は自費で渡米までして最新技術を学ぼうとする熱い問題意識と信念なくして生まれず、無論アメリカでの最新技術との交流が基になっている。
 小樽港はこの廣井の功績により商人たちの活躍を保障する舞台となっていく。

産業モデル
 進化する社会の中で一大発展した小樽も斜陽となり長いトンネル時代が続く。ここに運河保存運動が展開され、運河という水辺だけではなく周辺の倉庫群一帯が大事という認識が生まれ、さらには市内に数多く存在する歴史的建造物も大事だという地域文化志向に進化していく。ついにはこれら歴史的建造物の観光施設再利用(小樽モデル)に転化し、これらへの投資が小樽観光の牽引役になる。出かけて利する商業から迎えて利する観光への大転換が巻き起こる。そして平成14年度の調査で「観光は小樽市の基幹産業」という太鼓判を小樽市が押すほどに進化していく。
 この現象には歴史的建造物という「過去」と小樽モデルという「現在」が交流し、現代的ニーズが調味料として振りかけられた方程式がうかがえる。

三大モデル
 小樽がこの世に生を受け150年弱が経過した今日、世界に誇る三大モデルが確認できる。しかし今日の小樽観光はまだまだ途上である。多感な問題意識と有効な交流が期待される。