強行採決
石井 伸和
新聞報道
〜突如、自民が「質疑終結」問題残し 論争の火種、全国へ〜
「何をやるんだ」「バカもの」激しいヤジ、怒号が爆発した。十四日午後八時半すぎ、運河と道路の陳情を審議していた小樽市議会建設、総務の両委員会は、自民党の強行採決という形で「運河問題」に決着をつけた。市はこれより道路づくりの第一歩を踏み出したことになるが、このような委員会の決定で、果たして道や国が納得するかどうか。運河論争は今後、道、国の手続きが進むにつれ、全国的規模に広がっていくのは間違いない。
<昭和54年11月15日朝日新聞>
強行採決
昭和54年11月14日、促進派・保存派の陳情を受けていたが、小樽市議会建設・総務両委員会は審議もせずに促進派陳情の採決、保存派陳情の不採決を強行採決した。議会は怒号やつかみ合いという場面もあった。
このニュースを政治の現実を知らない私が聞いたのは叫児楼で珈琲を飲んでいたときである。「なんでこんな大事な問題を子供じみたやり方で決めるのだろう。なんでもっと正々堂々と議論できないのだろう。これが大の大人がすることか」と怒り奮然とした記憶がある。隣にいた大谷(勝利)が「まあよくあることだ。だから俺達みたいのが出てくるんだ」と慰めてくれた。しかし怒りは治まらず「数の多い右が数の少ない左を差し置いて多数決という方法で決めることくらい知ってる。でもこれは多くの市民が関心を示し、ここかしこで盛んに議論されている問題なんだ。なのにこの決め方のどこに主権在民があるんだ。世論を無視した全くの茶番じゃないか」とまくし立てた。すると怒りで興奮した心の中に鎮静剤が打ち込まれたようにうつむき加減になり、「市民も若者もなめられたな。それならそれでとことんやるしかない。俺達で戦いのレールを敷くしかない」という覚悟が芽生えてくるのを感じ、「よし、わかった」と顔を上げたことを覚えている。
ここで私が自らの怒りと共に感じた「俺達の戦いのレール」こそが、格さん(小川原 格)の戦略であり、山さん(山口 保)の企画であり、あるいは保格ラインであり、石塚(雅明)らが描いた絵であり、あるいは大谷のいう「だから俺達みたいのが出てくる」ということに気づくには時間をようした。
まだまだ未熟であった私は、倉庫のワビサビた風情がカッコイイと感じたこと、龍馬に憧れて国改め街を舞台にすることくらいを契機にして踏み込んだ世界で、初めて世間の不条理に怒りを感じ、戦いの覚悟が芽生え、実社会と個人の対立に自ら身を置いたことになる。
傍 聴
DAX(原田佳幸)は昭和54年11月14日の小樽市議会における強行採決を、『ふぃぇすた小樽』のスタッフ8人で取材を兼ねて議会の傍聴に出向いていた。審議がはじまっても居眠り議員が如何に多いかを目の当たりにした。突然自民党議員から「議論を打ち切って採決」という動議が発せられた。するとそれが合図のように全員が目を開けたという。ところがすかさず共産党議員から「議長不信任」の提案がなされた。本来であれば信任できない議長の号令で採決などはできないから、不信任が優先される。だが書記の既述順序が「先に採決」が提案されたという理屈から、強行採決に流れた。そのとき『ふぃぇすた小樽』のスタッフ以外にも傍聴者がいて、後方から議長を名指しでヤジが飛んだ。傍らでは峯山さんが泣いていたという。
DAXらが「これじゃ記事にもならない茶番だ」と思い、議事堂から出ようとしたとき、議長と出くわし、「誰だ!さっき俺を名指しでヤジったのは!名前を言え!」と恫喝をかけられたという。
「こんな居眠りしたり恫喝をかけたりする連中があんな茶番でまちの大事なことを決めているんだ」という事実のふがいなさに、DAXらは愕然としたという。
山さんいわく
日中、ネクタイをしめて経済界を営業で回っていた立場から、私は時間には自由だった。この時期、山さんと会っていろいろな話を聞く時間が最も多かった。
「石井なぁ、こんなことは世の常や。昔から数の力や権力の横暴はどこにでもあるんや。僕も憤りを感じるけど、感じたかてどうにもならんのや。それより僕らが拠って立つべきは主権在民やねん。在民の民の一部に僕らの仲間を増やすしかないんや。この決定は最終的には道がするもんや。この問題が道に行くまで僕らはできることをせにゃならんねん。僕らの仲間というのはポートが鍵を握ってるんやで」
「僕らはチンピラに過ぎない若者やけど、ポートは15万人もの人々を呼び込んだ祭りを主催しているんやで。パブリックなことをしてるんや。パブリックやで。ええか、市民なんや。その他の民衆やないで。街というパブリックを憂い展望する、これが市民なんや。よー覚えておけよ」
今では私自らが似たようなボギャブラリをよく使うが、22歳のノンポリチンピラには明確に理解できなかった。もちろん何度も何度もそれを聞かせてもらったが、ただ「俺達はスゴイことをしたし、それを武器にするしかない」程度でわかった振りをしていたに過ぎない。
ただ「石井、いいか、お前が説くのは同友会だ。井上(一郎氏)さんはそういうことを十分理解してくれるはずや。いわゆる経済界だ。経済界の人々に何と言って説くかわかるか。観光って言え。運河を経済に活かすには観光といえばリアリティが沸くやろ。お前はそれでいけ」とアジラレたというより、私自身自ら妙に納得した。
以後北海道中小企業家同友会小樽支部の会員となっている社長の方々を訪問し、運河保存と観光経済発掘とをダブらせて説く経済界行脚にエンジンがかかった。
そもそも日本における観光の萌芽は「お宮参り」「巡礼」など宗教動機の旅の歴史が古くからあるが、俗な意味では「海水浴」と「登山」に端を発する。
〜明治34年朝里村山の上畑394に朝里温泉旭風館開業。大正9年天狗山登山道完成。同10年内務省は手宮洞窟を史蹟に指定。昭和6年越中屋ホテルは新築落成。同9年オタモイ竜宮閣は披露宴開催。昭和11年北海ホテルは大改装。〜<『小樽歴史年表』>
これら戦前の出来事を見ると小樽でも間違いなく観光現象は起きている。
しかしこれから小樽で隆起する観光現象は、日本中の既存の観光とは大きく異なる。一言でいうなら「地域文化観光」で、日本人の心とお金に少しばかりの余裕が出てきたことが大前提になっている。その背景理由は高度経済成長による一億総中流階級の実現だ。貧富の格差は古今東西解消したことを聞いたこともないから、世界史上こんな理想郷を実現したのは日本だけかもしれない。大震災で押し込み強盗などの事件が起こさなかった国民性が世界中で評価されたが、一億総中流階級もまた世界的評価を得ていい。しかもこれから小樽で起きていく観光は、この日本的特徴が土壌になっているといえるだろう。