小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(20)

保格ラインの実働隊
石井 伸和




実務家
 大いなる構想が実現されるには、その構想の意義を理解する実務家がいなくてはならない。実務を担う者がいなければ現場はつくれないし、現場がなければ運動は絵に描いた餅でしかない。夢街やポート、いわゆる「運河保存再生運動」が市民を身方につける波紋を広げていった過程に、まるで妙を得たかのように実務家がラインナップされてきた。無論、彼らの接点はまちづくりへの情熱であったことは言うまでもない。
 ステージはべべ(岡部)、出店はDAX(原田佳幸)、設営は大谷、事務局はキッコ(北田)・吉岡・原田和幸らの三人体制、そしてここにも有力な二人がいた。ともに昭和29年生まれの太田善之氏と志佐公道氏である。

太田 善之
 太田善之氏は昭和40年後期に北海道デザイナー学院に通っていた際に、興次郎が経営していた札幌の喫茶店ドッコに友人等とよく出入りしていた。昭和50年12月25日に興次郎が小樽に叫児楼を開店させる際に、オープニングスタッフとして参加。一時札幌のパルコに勤務したが、昭和53年の第1回ポートの際は、幸か不幸か無職の時期に重なり、ポートスタッフとして様々な実務を担っていく。地先への挨拶や渉外を担当し、第1回にはメインステージのMCを勤める。また数年後のポートスタッフTシャツを男女に分けたデザインを提案し、「companion」いわゆる案内・接待を意味する役名を起用した。今日の派遣接待といった職業としてのコンパニオンが普及する以前の出来事である。また、格さんが仕掛けた身障者の祭り体験を実務上成功させたのも太田である。当時、知的障害者更生施設である和光学園の職員に友人がいたことにより、その友人を通して格さん戦略における企画がスムーズに実現した。そして資金の乏しい実行委員会であったことから、毎年6月に開催される水天宮祭のカラオケ大会にも、歌がうまいことから仲間に押されて出場し、なんと優勝を得て、そこで頂戴した景品を子供達に配った。
 このように太田は調整(コーディネート)に天賦の才を持っていた。新しいことをするに当たり、難解な表現を使わず、俗に例えられる才といってもいい。調整の目的は、相手が快く協力してくれることだ。そこに辿り着くまでには、マナーを弁えねばならないし、新しさも説明できなければならい。
 コミュニケーションは人と人の媒介だが、人が何かを伝えるとき、受け手の器に収まらなければ印象に残らない。語り手は自らの熱い気持ちはもちろん、様々な例えや言葉を駆使して伝えようとするが、「水は方円に従う」というように、受け手の器では手に余る熱さや、理解できない言葉や理屈は器の外に流れていく。だから受け手の器に何が残せるかがコミュニケーションの核心だ。学会や議場では専門家しかそこにいないから、専門用語も通じるし、難解な書物でも興味のある読者は理解しようと努めるから問題ないが、太田のように市井の人々や若者に本質を伝える妙技を心得た周旋家も珍しい。
 組織が前に向かって運動展開をするには、細部にわたってダイナミズムが発揮されるが、この細部への気配りでも太田は群を抜いた才を発揮した。太田は私より1歳上で、太田と私とはポートや後述するサマーフェスティバルやDOSAなどで同じ行動をとるが、私の誤解されやすい無愛想さを太田はいつもカバーして、特に若いスタッフに通訳してくれた。だから細部の中でも若者層との接点に太田は欠かせない貴重な存在だった。
 太田は第1回目終了時に知り合ったDAXに誘われ、新たに開店したパブ「HOIHOI HOUSE」に勤務し、以後他のスナックにバーテンとして修行し、昭和57年には独立して「モダンタイムス」というバーをはじめ今日に至る。
 思えば夜のビジネスはそんな太田にとって天職といえるかもしれない。夜はそれを舞台とする男女の駆け引きは別として、酒が入れば基本的に緊張がほごれ、仮面をはずす。愚痴も文句もあれば素直な評価も湧出する。こういう場面では、客は昼があるから夜があると思っている。この優越感がありながら愚痴をこぼすから、酔客の優越感は裸の王様である。裸の王様は裸であることも気付かずに、夜働く人々を差別的な目で見る場合が多い。この視点が裸の王様のシンボルであることも気付かない。こういう救われようのない客で成り立っているのが夜である。この絡繰りを太田は実に弁えている。私が逆の立場なら、いつ喧嘩になるとも限らない。しかし客は「いい気になって」帰って行くから太田の接客には脱帽する。

志佐 公道
 昭和29年小樽生まれの志佐公道氏は現場の人である。社会変革は変革論議にシフトした現場改革が必要だ。志佐は写真家を志し、今日では小樽の写真家として第一人者である。あの廃墟のような小樽運河を一番最初に魅力を感じたのは運動家である以前に画家と写真家であったことは既に述べた。志佐は東京写真大学写真短期大学部在学時代に被写体としての舞踏に興味を抱き、昭和51年、卒業の時点で、小樽に北方舞踏派が旗揚げすることを知り、モチーフを求めて一時帰郷した。海猫屋の厨房の手伝いをしながら舞踏の写真を撮り、海猫屋から桜町の自宅までよく歩いて往復した。その道すがら運河を何度も被写体としてとらえていたことからして、彼も最初に運河に魅力を覚えていた一人といえる。
 その魅力を感じたことは、魅力を感じた己の美意識を信じることに変化し、以後一貫して、変革議論に加わる必要性を捨て、常に変革遂行のための現場改革の中枢にポジショニングしてきた。いわば感性豊かな現場人である。もっといえば感受性豊かな右脳で感じて、左脳の理屈をスルーし、現場の責任感を全うする。この「無口な潔さ」は、まるで空気のように仲間に溶け込み、周りを優しく包み込んでいた。
 志佐がこの輪の中に入った契機は、よく出入りしていた叫児楼である。写真大学在学中に冬休みで帰郷していた昭和50年12月28日、初めて叫児楼に行った。その際「いらっしゃいませ」と声を掛け、地下の客席に案内したのが太田善之だった。
 昭和51年「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」を見学、昭和52年ビート・オン・ザ・ブーン参加、同年メリーズ会合参加、昭和53年第1回ポートフェスティバル宣伝部長、同年蘭島キャンプ参加、同年籔半夢街発起人会参加というように、志佐はこれらの転機の出来事の集いにはいつもいた。いたがほとんど発言をしていない。発言はしないが、現場への貢献は誰よりも大きい。
 その志佐の気持ちを示す証拠がある。第1回ポート当日、実行委員会の予測をはるかに超えて、立錐の余地がないほどの賑わいを見せた会場内で、会場内の管理に追われていた志佐は、「時間の感覚もなくなって客が邪魔に思えるほどだった」と懐古する。本来、客を呼ぶために開催した祭りであるが、その客が邪魔に思うとはいかにも不謹慎と一見思えるだろう。逆にこれほど深い現場の責任感を持っていた。それは後述するが、第1回目の後かたづけを一週間泊まりがけで、大谷・DAXとともに現場に張り付いて最後まで責任を果たしたことでも疑いの余地がない。
 さらに媒体についての深い洞察も持っている。実行委員会には資金が全く乏しいという事実から、現場現場に媒体を呼び無料で記事にするというパブリシティを常に仕掛けてきた。
 また、資金確保のために大型ゴミの日、潮見台にあるゴミ処理場に赴き、カラスと戦いながら古い家具などを回収し、骨董品屋に卸したり、ポート当日に実行委員会直営店でも販売した。
 このように志佐という存在は、議論の場での発言は少ないが、現場を常にプラスに仕向けてきた機能を担ってきた。
 志佐の大学卒業後の帰国はあくまでも一時のつもりだった。「小樽を離れて運河と海と山のある故郷がますます好きになっていたから、何処へ行っても最後は必ず小樽で暮らす意識は明確に持っていた。だからすぐまた小樽をあとにするつもりが、まさかその後7年も運河問題決着に時間がかかるとは」と述懐する。この表現でも現場の責任感が伝わってくる。ただ現場に埋没するという意味ではなく、東京を見て小樽を好きになったように、全体を客観的に俯瞰した上での現場であることも読み取れる。