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まちづくり運動から学ぶ(12)

政治とのかかわり
石井 伸和


ふぃえすた小樽
ふぃえすた小樽

既存の政治へのケジメ
「まちづくり」などという言葉がまだない時代である。学生運動を目一杯経験してきた山さん(山口 保)や格さん(小川原 格)にとって、地域の市民運動などにはどこかニヒルな視点を持たざるを得ない。ここに「水取り山」が染みこんで彼らの新たな希望が芽生え熱がこもった。
 そしてそれまでの議論の中で誰彼ともなく「まちづくり」という言葉が発せられ、「生きようとするに足る意識を地域に投影」する概念となっていく。
 後に格さんが『ジュリスト』の住民運動特集号で住民運動訴訟の紹介をするなかに「まちづくり」という言葉を見つけ、「目が釘付けとなり唸った」と白状している。
 昭和54年の地方選挙の際に、格さんは共産党陣営に対し「『まちづくり』という言葉は、夢街が言っている言葉で、選挙目当てに使用するのは控えて欲しい」とねじ込み、驚いたことに彼らはそれを受け入れ、暫く使用しなかった。保守系市長候補の選対事務所にも同じように行き、同様に要請した。「小樽の経済人が選対事務所に詰めていて、皆、ニヤニヤ笑ってくれた」と格さんは回顧する。また自民党陣営では「候補や選挙カーにはまちづくりという言葉は使用していないが、そもそも『まちづくり』というそれは、君たちが作った言葉なのか?と、鋭く問うてきた選対幹部(大野友暢氏)がただ一人いた」といい、「政党会派全部が使うなら大歓迎だが、特定政党だけが使うのは遠慮していただきたいと、若さだけで無理を通した」と返答したという。

朝日新聞第一面
 さらにこのときより4年後の昭和58年の地方選挙の際にも、「運河保存の可否を政党間の選挙の具にするな」という主張をし、朝日新聞の第一面にその記事が大きく掲載された。もちろん全国版で新聞名のすぐとなりの箇所である。
 なぜ全国版の新聞の第一面にこんな記事が掲載されたのか。これはジャーナリズムの視点では希有な主張に映ったからに他ならない。たかが一地域の一施設の問題として見れば、地方版の片隅で充分な話題ともいえる。「政党間の選挙の具にするな」というところにジャーナリズムは注目した。政党間の数の論理こそが政治とされる世界だけで、運河を語られてはたまらないというこの訴えは、運河問題は真摯な議論の延長にこそ方向性を考えるべきで、今日の政治土壌で争えば、真摯な議論がうやむやとなり、全く違う論理(政党間論理)で型にはめられることを拒否したことになる。これが快挙なニュース性に映った。さらにいえば、最早政治は国民のための政治ではなく党存続のための政治になり果てた姿をも批判していることになる。国民のために党が必要だからだというのはありがちな詭弁だ。あまつさえ国政の力学が地方政治の場にまで浸透し、地方の政治問題を国政の力学で片付けられることを拒否したということになる。
 政治や選挙そのものの批判ではなく、その中身のありようを批判し、したがって政治がつくった勝手な土壌で争われることを拒否した。この声明は峯山・石塚、そして山さん・格さんの協議で発表された。なんという真っ正直でしたたかな態度かと驚くばかりである。だが政治がつくりだした数の論理は、今日もなお一人歩きし、この第一面の快挙を想い出す者は誰もいない。
 当時28歳の私は、目を丸くした。この四人に対し「やっぱすっげぇ!」と改めて感動し、「おもしれぇ!」とつくずく感じた。
 このように、国政に襟を正すことを求めるという地方からの単発の力学は以後、様々な地方から何度かある。その都度マスコミはその快挙を大きく報道してはきたが、国政は一向に改革されずにいる。ただ、国政サイトでも気に掛けていない訳でもなく、政党のマニフェストの中に「分権」を超えて「地方主権」を掲げる場面もある。しかし「経済」という社会の分母の改革なくして地方主権はなく、経済の専門家も口を閉ざしたままだ。政治はそもそも自らは何も生まない故に、経済と文化のコーディネーター役が基本であるのに、それを忘れて政界が勝手にこしらえた論理でことを進めている。これが国政の現状だと今は見えるが、当時は好奇心をかきたてられたレベルで感じていたに過ぎない。

土佐の事例
 幕末、黒船来港に肝を冷やし国を憂えたた多くの志士が誕生した。結果的には産業革命を導入し近代化しなければ植民地になってしまうという危機感が芽生え、そのためには幕藩体制を脱却して国家をつくり、軍事的にも技術的にも近代国家を展望していく。
 ところが土佐藩ではそもそも徳川への伝統的忠誠から土佐藩をまかされた山内一豊以来の因習を脱しきれず、結果的に新国家創設に奔走していた土佐藩脱藩浪士坂本龍馬の活躍も知らず、時代に取り残される場面に出くわす。
「えっ?近代国家?幕府も藩もなくなる?その近代国家の筋書きを我が藩出身でしかも下士身分の坂本が?」という驚きを生んだ。
 ポート以後の小樽がまさにこれに似た現象を生んだ。「まちづくり」という概念が市井に浸透し、先入観として「地位も権力も資金もない者になにができるか」と思っていた人々を驚かすような展開になる。小樽という一地方ではそうだった。後述するように、事実小樽では、昭和58・59年は新旧拮抗状態の沸点に達した。
 だが前述のように、政界の腐敗はすでに麻痺状態にあり不感症を誘発する症状をきたしていたから、地方の新たな芽も既存の力学の中に埋没する。無論そんな予測や危機管理まで、この頃は地方にできようはずがなく、仮にできたにせよ、相手あっての改革だから、政界の感受性への期待薄は避けられなかっただろう。

大野友暢
 格さんが昭和54年に志村和雄市長をかつぐ自民党選対に「まちづくり談判」のケジメをつけに行った際に、一人だけ淡々と質問してきた人物がいたことは既に書いた。小樽作業衣社長で昭和51年から小樽商工会議所副会頭であった大野友暢氏である。この人物は観念や筋書きでは動かず、具体的なものに尺度を持ち大胆に行動する思想の持ち主であった。
 たとえば靴のリーガルやジーンズのリーバイスなどのブランド販売が、一定の卸問屋を通してしか普及できないことを知るや、すぐその手続きに奔走し、したがって北海道では小樽作業衣からしかリーガルやリーバイスを仕入れることができない。このうようなシステムの是非はともかく「そうなっているならそのように」を徹底するビジネスモデルである。
 この人物が格さんの談判を聞いて「このヤンチャな若者がいうまちづくりとはいかなるものか、その具体性は」という疑問を抱いた。その相手が地位ある人物であろうと名もなき若者であろうと全く関係なく興味を持つことが大野氏のおもしろさであった。
 この人物が、昭和58年8月に小樽商工会議所正副会頭が「運河埋め立て見直し」に傾いた時の首謀の一人となる。

ふぃえすた小樽
 興奮の覚めやらぬ第一回ポートの昭和53年は目まぐるしかった。夢のまちづくり実行委員会通称「夢街」が結成され、12月には「まちづくり」の概念を発信する「ふぃえすた小樽」が発刊された。編集長にはNTT職員であり、原田・岡部らとホイホイブラザースを結成した滝沢 裕氏がまかされた。発行責任者を及川良樹氏、写真を志佐公道氏、表紙デザインを原田が担当した。原田経営の「マッチBOX」や行き慣れたパブが編集会議の場となった。
 印刷の世界にデジタルが浸透する以前の時代、いわゆる版下制作はスタッフが行った。手書き原稿を印刷屋に入稿し、写植を受け取り、それを割付台紙に切り貼りする作業をコツコツ毎晩のように行った。校正の際に過去に切り取った写植を探して埋めるという細かな作業も苦ではないほど、その作業はスタッフにとって新鮮に映り楽しいものだった。切り貼りした部分の字間が揃わないことや曲がることもシバシバあったが、むしろそれも味となっていた。
「小樽80円紀行」では、当時バス料金が80円であったことから、バス路線にある地区へ赴き建物や歴史背景や地域性を記事にした。「サークル紹介」では当時の若者たちの様々な活動を書き、「小樽銭湯めぐり」ではそこに本当のコミュニティが存在することに感動した。そして誰もが愛してやまないポートフェスティバルのことが記された。
 ちなみに「ふぃえすた」とはラテン語で「祭り」を意味し、このタウン誌は夢街が隔月発行で一部200円で市販された。
 運河論争に強行採決という一打が下される昭和54年11月以後を我々は第二幕と呼んでいた。これを機に、ふぃえすた小樽のスタッフも一新された。編集長には平田真結美氏、編集スタッフに今井諏訪子氏、大田善之氏、そして私も加わり、私が当時住んでいた「すずらん荘」という8畳一間のアパートが編集室となった。