小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(23)

高島と小樽



ヲタルナイ場所タカシマ場所
 蝦夷地(北海道)がまだ正式に日本国の領土でない時代、現在の小樽市の版図は於古発川(妙見川)を境に、忍路までをタカシマ場所、手稲までをヲタルナイ場所と呼んでいた。タカシマ場所は1789〜1800(寛政年間)にシクズシ場所(祝津)からタカシマ場所に改称(『祝津町史』)されている。知行主(役人・武士)が運営するより商人に請け負わせた方が効率がいいという松前藩固有の場所請負制度により、ヲタルナイ場所は岡田家、タカシマ場所は西川家という共に近江商人に管理を委託していた。
 明治2(1869)年に開拓使が設置され同年場所請負制が廃止されると、タカシマ場所請負人であった第十代当主西川貞二郎は、浜益・宗谷・枝幸・紋別などに新たに漁場を経営、天塩国羽幌に捕鯨場を設け、明治19年八幡に缶詰製造所を建てて明治21年には小樽・高島・忍路などに分工場を置き、水産物農産物を材料とする缶詰を製造し好評を博し、また郷里近江において八幡銀行中一商会を起こし、大阪商船会社製織会社、近江新報社、養魚場等に深く関係した。

高島郡
 明治2年の場所請負制廃止を機に成長していくのが祝津の御三家白鳥・青山・茨木であるが、高島は西川家の支配が色濃く残りながらも、寺田・兵藤・南などの御三家を輩出している。だが祝津と異なり高島御三家の遺構は残っていない。明治3年開拓使は小樽郡と高島郡に分け、小樽郡は港や鉄道が整備され近代港湾に発展していくが、手宮以北(高島・祝津地域)の丘陵地により高島・祝津は小樽と分断され、漁業の街を保持していく。

高島村
 明治32年に小樽には区制が敷かれ、高島郡に入っていた色内・稲穂・手宮・手宮裡・南浜・北浜・厩が小樽区に編入される。高島は明治35年に二級町村制により高島村となった。

地形から
 茅柴岬や高島岬といわれる丘陵地は小樽の中心部が都市化していく中で決定的な遅れを強要した。高島も祝津も互いに赤岩に続く山道に住宅が建てられ、漁業と水産加工の生業で維持されてきた。
 高島は出身者に新潟が多いが、秋田・山形・富山もいることから小樽と変わらない。変わらないが高島の祭りとして越後踊りが継承されるあたりのねばり強さには脱帽する。

人物像から
 私事の領域だが、高島人を誇る三名の先輩について記す。一人目は昨年12月に他界された米谷祐司氏。一月号の追悼でも記したが、「鰊と珈琲」をマッチングさせたニヒリズムが美しい。経済的発展に焦燥する都市人を哀れむほどの地べたの詩と生き様を残された。
 二人目は小樽で最も有名な漁業家成田正夫氏である。三十代の頃「青年漁業士」という肩書きの名刺を差し出され、現在は「小樽産しゃこ祭り」のシンボルでもあられる。自然との戦いを孤独な中でしのいできた凄みがある。「マナー?なんだそれ?」という人工的なものへの成田氏の態度に微笑むには、聞く側に侠気がなければならないからよく誤解され、生き様そのものが素朴だからこそ豪快に映り、だからユーモラスともいえる御仁である。
 三人目はJAZZボーカリストの上田早苗氏である。ハスキーな歌声でありながら、繊細な表現力を身につけておられる。高島のやっちゃば性とJAZZの気取りのギャップをはにかみで埋める笑顔が素敵だ。
 このように私の中の高島御三家は、まるで絵に描いたように人の生命力の根拠を常に忘れない生き様がいい。
 小樽がいくら背伸びをしても得ることのできない何かがある。