小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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追悼

故 米山裕司氏に捧ぐ


えっ?
 私が高校時代だから昭和47年、今から40年も前のことだ。友人と高島の豊井へ海水浴へ行った際に、ある店に立ち寄り、そこで壁に掲げられていた詩篇を見た。そこには「鰊を食いながら珈琲を飲み」という一節が綴られていた。「えっ鰊と珈琲?」鰊と日本酒ならわかるが、珈琲という意外な組み合わせに唖然とした。
 小樽には喫茶店が軒並み増えていた時期で、珈琲の味も洗練され、この微妙な違いに多くの若者が、喫茶店毎に棲み分けされていた時代だった。だからオシャレで洗練された珈琲と泥臭い印象の鰊の組み合わせには驚いた。その驚きは私にとっては否定的よりむしろ好奇心の方が勝っていた。「いったいどういう視点なのだろう」そんな問題意識と作者米谷祐司の名が記憶に埋め込まれた。
 いま思えば、現場のみが持つワイルドな視点で毅然と主観を描いていることへの魅力だった。「鰊を食いながら珈琲を飲んで何がわるい」くらいの堂々とした主観は「詩」ゆえに可能だ。さらに「これが粋なんだ」とも伝わり、新たなライフスタイルを提起している。

月刊おたる 平成23年12月号(通算570号)
月刊おたる 平成23年12月号(通算570号)
月刊おたる
 私が大学へ通い出した頃、数年前に結婚して東京に居住していた従姉妹の家を訪ねたことがある。そこに毎月定期購読で積まれていた「月刊おたる」があった。「これとってるの?」と聞くと、「うん。私の郷愁なの!」と答えたのを覚えている。
 全国のタウン誌としても早くから創刊され、小樽の飲食店などでもよく見かけていた。私の中で「小樽への興味」など、まだひとかけらもない時期だ。「えっ郷愁?小樽?そして米谷祐司?」あの「鰊と珈琲」のときの問題意識が騒いだ。
 商人の街として発展した小樽が戦後、斜陽となりはしたものの、商いの復活を捨てきれずに小樽は経済振興に大きな夢を馳せていた。少なくとも私の青春時代の昭和40年代はそうだった。「文化で飯が食えるか」という勢いの土壌の中で、米谷氏は数少ない文化人だった。むしろ「文化で酒をくらうさ」とでもいいたげな反骨すら感じられた。

郷土愛と地域文化
 米谷氏の地域に根ざす不動の主観は、商人気質から培われたのかもしれない。自らも小樽商人に数えられる父を持ち、山本 勉、木村圓吉、松川嘉太郎ら最後の小樽商人といわれる人々の接着剤ともなっていた。むしろ文化役を一身に背負っておられたのかもしれない。気取った文化人などではなく、現場を知る新たな地域文化への臭いが毅然としてあった。
 私が小樽へ戻り、夜の歓楽街へも通うようになると、一人で連むこともなく、千鳥足ではしごしている姿をよくお見かけした。その頃から明確に「あの方が米谷さんか」と知った。まさに酔いどれ詩人さながらの風情に心地よさを覚えた。

初めての会話
 平成18年、私が企画した後志・小樽ハエヌキ音楽祭実行委員会「北海道サウンド創出」の実行委員長として米谷祐司氏を仰がせていただき、打ち上げの席で初めて会話を交わした。「石井君なぁ、病院に行くから病気になるんだ。これは俺の飲み薬につけ薬よ」と酒と煙草を指さした。箸はまったく進んでいない。よく身体が持つとその強靱さに驚いた。まさに身体を張ったライフスタイルを思い知らされた。

小樽學
 平成21年正月、春から創刊準備をしていた本誌「小樽學」の発行に際し、仁義を切るため、1963(昭和38)年7月創刊の大先輩である「月刊おたる」の事務所を訪ねた。「それはいいことだ。是非頑張りなさい。俺でよかったら寄稿もするよ」と答えてくださった。

追 悼
 それからもよく街で出会う機会に恵まれた。昼食時の定食屋でもビールを飲み、夜の歓楽街でもふらつく後ろ姿を拝見した。
 多分、私自身の郷土愛への最初の契機は米谷氏だった。
 平成23年12月22日、小樽地域文化の発掘者、77歳喜寿にて大往生、心からご冥福をお祈り申し上げたい。

特定非営利活動法人 歴史文化研究所
副代表理事 石井 伸和