小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
bg_top
alwHOMEalw読んでみるalw比較論(22)

比較論(22)

大阪と小樽


関係の馴れ初め
 小樽が日本史に明確に登場してくるのは幕末である。その頃、大阪は既にこの国の商業経済の中心地だった。現在、俗に「くだらない」という言葉も商業経済の中心地だったことに由来する。大阪に集められる商品を「上り」「上り荷」といい、大阪から全国に卸す商品を「下る」「下り荷」といった。大阪は相場を決め品定めをする管制塔だったので、ハンパものは荷にならないことから、ハンパなことを下らないというようになった。
 江戸時代、大阪は広域商業の中心地ではあったが、商人で名を馳せた出身地域を冠して、大阪商人、近江商人、伊勢商人、加越能商人、越後商人、博多商人などが、大阪という地域を拠点に活躍した。中央とのパイプが強かった故に利益も大きかった。
 このうち、近江商人、加越能商人、越後商人らが、小樽のビジネスチャンスに目を付け、この混合した商人土壌から小樽商人が輩出される。

大阪と過去の小樽
 大阪は全国で最も駐車違反が多く、黄色信号は普通「もう黄色」と認識するが、大阪では「まだ黄色」で突っ切る。また普通「元気ですか」という挨拶は大阪では「儲かりまっか」で、儲かる儲からないが交流の玄関先での尺度になる。
 恐らく、明治から昭和初期までの小樽も大阪に生き写しだったに違いない。石川啄木が「かなしきは小樽の町よ歌ふことなき人人の声の荒さよ」と詠んだように、物が右から左へなだれこんだ物流基地だった。今日ではクレーンもベルトコンベアもあるが、全ては人海戦術での荷役だったから、啄木のようにボーッとして歌を詠んでいては「邪魔だどけっ!」となる。いわゆる無神経な陽気さという精神土壌が培われていただろう。
 物流経済の隆盛期というものは元来、文化を置き去りにするようだ。

大阪と今の小樽
 ところが長引く斜陽は小樽人を保守的にそしてアンニュイにした。大阪も充分斜陽だがアンニュイにはならない。無神経な陽気さから神経質な陰気さという手に負えない気質の糸が編み込まれようとしている。あまつさえ保守的で依存心満載となればもう末期症状だ。
「こんな小樽ではなかったはずだ」と思い、「小樽學」を編んでいるが、これとてリアクションのなさに苛まれることもある。
 大阪のように生命力漲るガサツさとまではいかなくとも、伏流水として流れる水流をなんとか地上に露出させたい。

地経済と文化
 近江や加越能や越後は経済面で大阪とのパイプが強かったと書いたが、文化面はなぜか都の京都に憧憬を抱き、小樽に花園・嵐山・東山という京都の地名を移植した。小樽をつくってきた商人たちは大阪に経済的パイプを、京都に文化的憧憬を持っていたことの投影だ。
 人間の動きが政治・経済・文化のどれかにくくれるなら、地域も人間がつくったものだから人の意図が投影される。大阪が経済、京都が文化、東京が政治とすれば小樽はどこに重点が置かれるだろう。かつては大阪のように経済だったが、現在は観光を基幹産業とするなら、文化をネタにした経済といえるかもしれない。観光は文化が対象だ。その文化価値を金で体験する結果経済現象になる。

進取の気性
 なぜ大阪が商品経済の中心になったかは、天皇のいる京都に近かったこと、大阪城を築いた秀吉が家康より商業感覚を大事にしていたこと、湊を抱えていたことが挙げられるだろう。このような背景から江戸時代は幕府直轄となったこともあって、政治的安泰が得られ、ますます自由経済の土壌が濃くなってきた。
 ならば小樽は文化的経済なるもののリーダー役にはなれぬものかと考える。ナンバーワンでなくともオンリーワンでいいから、小樽が切り開く独自のジャンルがあってもいい。