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まちづくり運動から学ぶ(8) 運河保存運動第一期

石井 伸和


有幌の倉庫群
有幌の倉庫群
運河保存運動第一期
 運河タブー視の風潮の根源をたどってみる。タブーというのはTaboo(英語)で「禁忌」つまり「やってはならないこと」を意味する。「アンタッチャブル」というマフィアと刑事の映画があったが、触れては危険な黒社会のボスを果敢につかまえるという意味をタイトルは表し、これも同義だ。
 いわば社会的に誰もが避けたい話題という意味である。
 昭和41年に小樽市において、札樽バイパスの延長で、道道臨港線が都市計画決定され、昭和46年から48年にかけて有幌の倉庫群が取り壊される現場を見た危機感が、昭和48年の小樽運河を守る会発起人会設立となる。越崎宗一郎氏を会長とし、藤森茂男氏を事務局長として発足した発起人会は、運河埋め立て反対の陳情や署名集めを開始。昭和50年正式に小樽運河を守る会が発足される。ここまでは動機があっての自然な行動である。
 いっぽう昭和49年には道道臨港線早期完成促進期成会が川合一成小樽商工会議所会頭を会長に発足、小樽市、小樽市議会、色内港町町会に陳情を行う。この段階で反対行動に対し敵対勢力が構えをもったことになる。
 こうした攻防のさなかに、守る会事務局長の藤森茂男氏に経済界から圧力がかけられる。具体的には一部の経済人らが語らい、藤森氏経営の看板制作会社 株式会社藤森のメインバンクに融資させない取引を裏でするのだ。これを今日パワハラという。このために藤森氏の会社は縮小を余儀なくされる。そして藤森氏は家族や社員を養うためにも、昭和51年6月守る会事務局長を降板する。また同年10月には会長の越崎宗一郎氏も急逝、翌年暮れに脳血栓で藤森氏が倒れ、大晦日に倒産するという事態に直面する。
 このような新たな市民運動に任ずる人々に舞い降りたアクシデントが次第に神話化され、小樽で運河を語ることはタブーとされた。特に会社を経営する立場の人々にとって、それは決して開けてはならないパンドラの箱となった。
 でも考えてみれば市民運動側は「されっ放しの泣き寝入り」同様だ。卑怯な手を使った方に軍配があがり、自然で純粋な動機や行動を抑止されたばかりか、タブーという神話までできてしまうのだ。人の弱さが保身のみのために、社会にバリアを張り傍観者に閉じこもる。このバリアが運河問題タブーの正体だ。

有幌の倉庫群<私立小樽図書館蔵>
有幌の倉庫群<私立小樽図書館蔵>
小樽の経済と圧力
 次にこのアクシデントが小樽という土壌で神話化される背景をたどってみよう。
 小樽は明治初期から昭和初期に至るまで、北海道の物流・人流の玄関口となり、この世の春を謳歌した。いわゆる商業港湾都市といわれ、特に物流基地となって我が国流通の近代化のモデルとさえなっていく。だから小樽の歴史資源となっている港湾・鉄道・運河という土木遺産や、倉庫・銀行という歴史的建造物は全て商業における近代化遺産に属する。
 さて、当時の物流基地を振り返れば、中央とのパイプが大きくものをいった。資源の少ないこの国では輸出入の貿易が大事なネックになる。資源あっての近代産業だったからだ。したがって他国との貿易には多少のリスクに耐えられる大企業を政府も支援してはじめて近代産業化の仲間入りができた。ここから護送船団方式といわれる日本経済の構造が培われてきた。大企業が輸入した物資を北海道へ、北海道の石炭や木材を中央を通して輸出へという流通経路が確立する中で、全国の多くの中小企業が付着して、地方都市の小樽港もその担い手となってきた。
 小樽商人と称された多くの商人群像を小樽は生んだ。中には特徴的なビジネスモデルで発展した商いもあったが、俯瞰してみれば、この国の経済背景を支える中央とのパイプは小樽経済の命綱であった。このような認識にともなう小樽経済の構造は、戦後も継承され、米や穀物や肥料の備蓄基地として港湾業は政治力の恩恵で延命していた。しかしこの時期、事実として小樽の港湾産業が小樽経済に及ぼす影響は昭和50年代には2%程度にしか過ぎなくなっていた。
 要は小樽の発展の基盤となった港は、この2%という事実が曖昧になるほど、小樽の聖域という認識が歴史的に小樽人に蔓延していたことから、ある種の亡霊を小樽市民の意識の中に孕ませることになる。先に「社会の弱さ」と書いたが、この弱さをタブーにまで堕落させた媒介が亡霊ともいえよう。
「中央との関係が大事」「港湾がその窓口」「中央と小樽の関係には口出しできない」そんな意識がまだまだあった背景を無視して、運河問題は語れない。
 したがって藤森氏に圧力がかかる力学も、倫理を超えたところではありがちなことだ。くわえて、日本経済の流通構造の拠点として、道路工事の公共事業誘致という名で、多くの民を食わせるパイプに対し、原風景だの、文化だの、郷愁だのという理由は歯牙にもかけられなかった。しかも既に議会で都市計画決定された決議を変えることは「行政の根幹に関わる」とした、当時の志村市長の口上も俗な見方からすれば不思議はないし、高度経済成長に乗り遅れた焦りもその意志を加速させていた。
 しかし以後、運河を核とした小樽観光が勃興し、道道臨港線道路建設の公共工事が及ぼす経済波及効果の何十倍何百倍もの効果を持ち、しかも御上から与えられる公共事業ではなく、自主的な繁栄へのバネを持つことを、このときは誰も知らない。

有幌の倉庫群
有幌の倉庫群
藤森 茂男
 藤森氏は多摩美術大学デザイン学科時代の学びの中で、デザインの語源はラテン語「デジナーレ」から起き、「一般的な人間生活の中で、物事を予測し、それに具体的に対処する」ことをいい、社会背景そのものをデザインするという意味に純粋に開眼、自らの看板制作という仕事も、趣味の絵画もデザインを重視する世界だが、社会そのものをデザインしてはじめて本物のデザインだと考えた。そして港に感謝をするという潮まつりの創設委員の一人として昭和42年開催に向けて奔走する。
 昭和46年から48年にかけて破壊されていく有幌の倉庫群を藤森氏がその目で見たとき、幕末に黒船という怪物を見た志士たちの危機意識と同じものを感じたに違いない。中央の力、経済の惰性という怪物である。
 既に昭和30年から48年まで膨張した高度経済成長も終わりの予兆が見え、ましてや高度経済成長に乗り遅れた小樽が、悔し紛れのリアクションで道路の画一化に与することになれば、デジナーレの中から一切の歴史を排除する街になってしまう危機感を持ったに違いない。この場合の歴史とはつながりや連続性をいう。過去があって現在があることや、人の支援があって今があることも認めない傲慢な態度が普遍的になるはずがない。
 こうして運河保存への藤森氏の熱い思想と情熱が起点となり、後年、大きな輪となって波紋を広げていくのだ。
 私は藤森氏とはついぞお話しをする機会には恵まれなかったが、一度だけ市議会の聴講の際にお見かけしたことがあった。運河の議論も数で押し通す茶番さながらの幕引きを見て、私の前に着座されていた藤森氏が「ふん!」と声を漏らし、すっと立ち上がり、手に抱えていたジャケットを肩にかけ、議場を後にした。ニヒリズムとダンディズムとを併せ持った一瞬の印象が今も新鮮だ。

藤森 茂男氏(写真協力:藤森 五月氏)
藤森 茂男氏(写真協力:藤森 五月氏)
空気を読むのか創るのか
 こういう空気の中で、その空気を読めば黙っているしかない。だからタブーが成立した。しかし小樽の若者たちは恐れを知らないとはいえ、藤森氏のデジナーレ意識を契機として、ポートフェスティバルという新たな空気を創ってしまったことになる。無理が通れば道理引っ込むともいうが、そもそも形骸化し、一部の人々の利権を満たすに過ぎない道理側に対し無理といわれた空気がなだれ込んだ形だ。古い常識から見ると無理と思われただけで、新しい感覚からいえば、そこには志の具現化という道理さえあった。
 恐れたり、ケチったり、保身に傾けば、黙る方が得策という空気は何時の世にもある。そこに新たな志を抱き、恐れを知らないから向かい、財産もないからケチることもなく、保つ立場がないから身体を張る。古今東西、歴史は若者が創ってきた。その原動力は新たな志であり、新たな空気となってきた。
 ポートフェスティバルの大成功と大反響は、まさに小樽の新たな歴史の幕開けであった。

当時の小樽運河
当時の小樽運河
本野 圭祐
 藤森氏が壊され行く有幌の倉庫群を見て危機感を抱いたことは既に書いたが、もう一人、昭和49年に小樽青年会議所理事長であった本野圭祐氏も同じく危機感を抱いた。昭和49年4月16日、豊楽荘において、市理事者と運河を守る会代表を招いて、質疑討論を行っている。この催しが両派が同じテーブルで顔を合わせた最初で最後であった。市側からは志村助役、丸山土木部長、守る会からは越崎会長、藤森事務局長、千葉宣伝部長らが出席した。
 100人近い参加者らは「もっとこのような市民参加の会合を」という声があがった。
 ちなみに本野圭祐氏は小樽の老舗である株式会社本野雄次郎商店(昭和16年創業)の社長であったが、昭和54年、私が22才の頃に初めて自社の営業として飛び込んだ先でもあった。本野社長はつれないそぶりで「間に合ってる」と私の新米営業を拒否された。冷や汗からがら出て行こうとすると、「君ちょっと待ちなさい」と声を掛けられ、「あのなぁ営業っていうのは断られてから始まるんだ。そうやすやすと帰ってしまったらご用聞きでいいだろう。もっとつっこんでいかないといかんぞ」と諭してくれた人物である。いわば営業のイロハを教えて頂いた。
 本野圭祐氏は昭和56年に若くして急逝され、以後、義幸氏、秀麿氏と代替わりされ、現在宏和氏を社長として運営されている。私の会社はこれ以後本野商店にお世話になり、特に現社長の宏和氏は若い頃からの私を知り、「石井君この間のあの言葉はいかんぞ」とお電話でアドバイスを賜ったりした。感謝に耐えない。
 もし圭祐氏が健在であったなら、小樽経済の背骨は強固になっていただろうし、運河論争の仲裁役をも果たすに充分な人格者であった。

当時の小樽運河
当時の小樽運河