小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(18)

稲穂と小樽


商港の小樽 カフェー軒を並べて日夜賑わひさざめく稲穂町都通り
商港の小樽 カフェー軒を並べて日夜賑わひさざめく稲穂町都通り
榎本 武揚
 1872(明治5)年、開拓使は「土地払下規則」を発し、北海道の土地を開墾することを促進するために、安価で売り出した。榎本武揚は同年、黒田清隆の尽力で放免され、3月には開拓使4等出仕という立場で仕えることになり、5月に北垣国道と共に富岡・稲穂の20万坪を取得している。具体的には、東西は手宮線から旭山、南北は於古発川から色内川一帯である。

商港の小樽 繁栄を極むる稲穂町の中心
商港の小樽 繁栄を極むる稲穂町の中心
当時の小樽
 明治5年当時はまだまだ小樽は未開であり、まして稲穂や富岡という地名も存在しないばかりか、荒野に等しかった。小樽のまちづくりは勝納川河口の信香町、金曇町を起点に港に近い堺町や色内・手宮からはじまってきたが、人口はわずか4,242人・戸数850戸に過ぎない。
 1855(安政2)年に徳川幕府は神威岬以北への婦女子の移住を許可し、明治2年に明治政府が生まれ、同年開拓使が設置され、北海道が誕生する。小樽にはニシン漁の人々や北前船の人々が往来し、病院設置(明治2年9月)、海官所設置(同年10月)、小樽役所設置(明治3年3月)程度の集落に過ぎなかった。

現今の小樽市 稲穂町仲見世
現今の小樽市 稲穂町仲見世
先見の明
 榎本は幕末から明治初期にかけて、近代国家の将来図を見ていた一人だ。そして開拓使出仕の際の任務は「北海道鉱山検査」で北垣らと茅沼炭鉱ほかの鉱山を巡回している。簡単にいうとこうだ。「日本は近代国家をつくらねばならない。近代国家の原動力は産業革命の導入だ。産業革命とは機械であり燃料が必要だ。その燃料が北海道にはある」と確信したに違いない。
 そして榎本の発想はここで止まらない。「肥料としてのニシンが豊かで、石炭も豊かにある北海道。開拓使は北海道の本府を札幌に決めている。札幌を中心に北海道開拓を進めるなら、物資の移出入となるのは、天然の良港を持つ小樽以外にない。とすると小樽はまだまだ人口が増える。坂の多い小樽の地形で広大な開墾をしなければならない」と考えただろう。それが今日の稲穂だった。

稲穂町の盛観 停車場通りの稲穂町は最も繁華な商店街で、店頭麗しい雑貨店やバー、カフェーなどが建ち並び、映画館、劇場もあり、頗る殷盛である。
稲穂町の盛観 停車場通りの稲穂町は最も繁華な商店街で、店頭麗しい雑貨店やバー、カフェーなどが建ち並び、映画館、劇場もあり、頗る殷盛である。
小樽のまちづくり変遷
 榎本の先見の明は当たった。明治14年に北辰社を設置し所有した20万坪の開墾を進めていく。この間、小樽は手宮線が開通し幌内から石炭が運ばれ、北前船主が倉庫を建て始め、ますますニシンは豊漁となり、商人達は船の出入りが見える水天宮の海側に居住するパターンが生まれる。明治25年には北辰社代表に寺田省帰が就任して本格的な開墾と不動産売買が活発化し、小樽の富豪居住地は富岡に移っていく。
 大正9年に初めて今日の国勢調査が行われ、「小樽区土地台帳」が作成されるが、小樽の土地所有者の大地主は33,540坪の木村圓吉を筆頭に上位20位まで一部を抜かして商人が名を連ねている。この一部とは、4位榎本武憲26,809坪、5位北垣確20,908坪である。いずれも名前は 相続もしくは委譲されたと思える。両者足して47,717坪、一方16位に北辰社代表の寺田省帰8,107坪とあるので、安易だが加算してみると55,824坪となる。この段階で明治5年取得時の20万坪の三分の二が販売された計算だ。大正9年は小樽大正ロマネスクで、人々は繁栄を謳歌し、稲穂は繁華街の基盤となっていった。

オランダ留学時代の榎本武揚
オランダ留学時代の榎本武揚
その後の稲穂
 昭和後期から職住一体が分離し、ドーナツ化現象を生み、さらに自家用車の普及により郊外型の傾向と重なり、稲穂の居住者は大きく減少していく。都通りやサンモール一番街も苦戦しながらも、基本的には榎本構想を守っている。
<写真提供:市立小樽文学館、小樽市総合博物館>