小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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COLUMN

ファンタジーと小樽
編集人 石井 伸和


見方の相違
「小樽のどこがファンタジーなのか」と小樽を知っている小樽人がいう。「小樽はファンタジーだから」と小樽を知らない観光客がいう。
 何を知って何を知らないのか、知らない幸福と知る不幸、知らないが故に陥る欺瞞と知ったが故に持つ臆病…

客観の試考
 小樽人が小樽を客観視するには多少の無理と矛盾もあるが、いまそれを試考し、なんらかの共鳴バイパスを架けなければと思う。
 よく対比されるのはファンタジーとサイエンス・フィクション(SF)だ。ファンタジーが空想を筋目とするのに対し、SFは自然科学の法則を筋目とする。
 たとえば小樽を歴史的な視点でみると「なーるほど」と納得できる節がいくらでも見つかる。しかしこの作業のどこにもファンタジーの素材は見あたらない。「なーるほど」という納得は連続性で必然的で、まさにそこが科学の命綱だからだ。
 いっぽう小樽の歴史も知らずに、歴史的街並や活発な再利用が次々と具現されるその表層だけをみると、ファンタジーの素材はふんだんに見えてくる。
「なぜ古さがデザインに?」「なぜ古いものを再利用?」「なぜこんなに多くの再利用が?」「その雪化粧がなぜこんなに美しい?」どれも説明できない「わかーる」の領域だ。

中国史観
 地球上に存在する中国という国の特殊性は、天上天下唯我独尊で国の生命の終わりまでを一つの連続した物語とする希有壮大なところにある。たった一つの物語のみが生命を持つのだから、枝葉末節の捏造や賄賂やピンハネも当たり前の土壌と化している。この「たった一つの物語に賭ける」という根拠を誰も証明できなところに中国的ファンタジーがある。

フランス史観
「だからどうだっていうのよ」といいたくなるフランスのデカダンスには気が引けるが、「ディティールを語らなければ真実を知ることはできない」というウシロメタサがあるからどうしても気にもなる。起承転結の物語はハナっから無視され、真実めいたメッセージが堰を切ったように吐き出されてくる。ニヒルで、読める空気などまるでない。
 この「物語なき表現の散逸」如きは真実などではないと誰も証明できないところにフランス的ファンタジーがある。

小樽的ファンタジー考
 ここでの試考は、「なにか新たな現象を生む気配としてのファンタジー」を目論んでいる。明治から昭和初期に227万人の移民の中で唯一積極的に小樽に移民した数少ない一攫千金組、近代商業の先駆けモデルを実現した小樽商人、運河保存運動から観光産業を生んだ奇跡、さらにはこの歴史過程の中で、戦災を逃れ、高度経済成長のスクラップ&ビルドに洗われずに歴史的環境を破壊してこなかったアクロバットなどを考え合わせると、小樽が新たな現象を発信してきたことはまちがいない。
 新たな現象が具現化された段階で、空想の領域から脱するので、それはファンタジーではなくなる。ファンタジーは実現してもしなくてもファンタジーであるというおおらかさがあるようだ。

小樽のファンタジー土壌
 では小樽のファンタジー土壌についてである。廃線の鉄道、港湾機能を消失した運河、荷物が保管されない倉庫、使われていない歴史的建造物など、現在の社会に機能していない素材が散らばっている。それらは、たとえば一度押された鍵盤の音階は変わらぬが、テンポやリズムや前後の文脈によって新たなハーモニーを奏でているともいえる。無論、これらの創設者が意図すらしていないハーモニーである。「機能しなければ壊される運命」とはいかないバリエーション豊かなファンタジー土壌が小樽にはある。
 中国のように壮大でもなく、フランスのように繊細でもないが、遊び心やアート志向の活路が成立する偶然性とでもいえるかもしれない。