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まちづくりから学ぶ(4) 運河を守る会とポートフェスティバル

若者参戦前夜その3


昭和53年当時の山口 保氏
昭和53年当時の山口 保氏
山口 保
 山口 保氏は岐阜生まれで、学生運動に身を投じた立命館大学を昭和45年に中退後、3年間のヨーロッパ放浪の旅を終え、フランス移住を決めて、別れの挨拶のため同大の同期であった佐々木恒治氏に会いに小樽駅に降りる。そして小樽の風景がまるで移住しようとしていたフランスの情緒に似ていたことから、暫く住もうと決めた。人生は所詮仮の宿、小樽での生業として昭和51年に手宮で喫茶店メリーゴーランドを開店。そして運河論争のオピニオンリーダーとなり、昭和57年に富岡で沈め彫り工房、平成15年から小樽市議会議員となり現在に至る。

佐々木 恒治
 一方京都出身で先に小樽にいた佐々木恒治氏は立命館大学を卒業後、京都の環境事業研究所に就職し、その調査で北海道のニセコへ赴き、宿を小樽にとった。そして気ままな渡世さながら、そのまま住み着いてしまう。昭和52年に堺町にライブハウスのメリーズフィッシュマーケット(現からくり動物園あたり)を開店し、2階ではシルクスクリーン工房を運営、以後、稲穂一丁目開発を仕上げ小樽開発の社長となり、丸井今井の元社長今井春雄氏の信を得て丸井グループの執行部に入り、平成9年の春雄社長解任と共に丸井を去る。現在は独自に起こした株式会社北海道マイクロエナジー社長として、バイオマスの研究及びバイオマスエネルギーの販売を行っている。

山口と佐々木
 山口は立命館大学で共に角棒を握った学生運動の同志佐々木(恒治)に会いに小樽へ来た。
 この二人は、団塊の世代を代表する象徴的な進路をそれぞれたどっていく。山口はまちづくり運動の道に進み、佐々木は企業革新の道に進んだ。
 かつての学生運動時代には、佐々木が真っ先に機動隊に突っ込み、山口が最後まで機動隊と戦うという対照的な逸話がある。

佐々木一夫という磁石
 山口は骨董品が好きで、小樽や札幌の骨董品屋をよく訪ねた。ところが行く先々で佐々木(一夫)と会うのである。互いに長髪で互いに「うさんくささ」を感じていたという。そして石塚とともに山口が叫児楼に来店し、イベントの話を持ちかけたことが契機となり、まちづくり部隊の広がりにつながっていく。
 いっぽう佐々木(恒治)は叫児楼に出入りし、そこで佐々木(一夫)を知り、様々なコミュニケーションをとっている。
 叫児楼という店を拠点に、佐々木(一夫)が磁石となり、志を媒介に、市外から訪れた山口、佐々木(恒治)、石塚が交わり、音楽を媒介に、市内の岡部・滝沢・原田・大谷らが交わっていく。まちづくりへの志、ロックやブルースを求める発散がエネルギーとなり、小樽のまちづくり運動の培養がその起源をもつ瞬間である。

当時の若者
 昭和52年9月の小樽市の人口は187,155人で、平成23年3末の131,740人より55,415人も多い。昭和52年には今日のように少子高齢化の予兆さえないことを思えば、多くの若者が存在していた。また当時、若者が就職を東京をはじめとした大都市に求め、出戻りで故郷に帰ってくるUターンという社会現象も少なからずあった。これより以前、つまり高度経済成長(昭和30〜48年)期には、太平洋ベルト地帯といわれる工業地域を核に、「金の卵」といわれて、全国の地方から若者の集団就職という社会現象が広まったが、これは社会が若者の労働力を必要としたのに対し、昭和50年代には、若者自らの意志として大都市に向かった傾向が強い。したがって社会的強制力が希薄な分、若者は自由に「行っては帰って」きたといえる。そして大都市を後にしてUターンした若者達の意志には、膨張し続ける大都市への問題意識も同時に孕んでいた。
 この大都市への冷めた視点は、今日でいう「中央集権から地方主権」の予兆とみてまちがいない。
 そしてもう一つの特徴は、前号(bQ)既述を詳しく繰り返すと、戦後の廃墟を責任を持って生きてきた世代を戦後の第一世代とすれば、彼らは必死で地べたを這いずり回り働いてきた。資本主義を認め、国策と大企業の護送船団方式を認め、その傘下でモーレツに働く、そういう世代特有の社会的テーマがあった。この世代が資源の少ない日本経済の牽引役となる大企業系列の構造をつくってきた。次に団塊の世代といわれる戦後間もなく生まれた層を戦後の第二世代とすれば、彼らは安保闘争に結集し、社会的テーマとして、既存の日本社会に大いなる問題意識を露呈させた。この世代が「シンプルイズベスト」や「コンセプト」という概念を普及させてきた。別な見方をすると、第一世代が日本のハードを、第二世代が日本のソフトを築いたともいえる。
 こういった背景に戦後の第三世代が世代共通の社会的テーマを持つことなく誕生する。荒削りとはいえ社会のハードとソフトが築かれ、第三世代のせめてもの社会的テーマはニッチ(隙間)といわれた。だから「シラケ」という流行語を生み、Uターンという彷徨につながったともいえる。

小樽の若者
 さて小樽である。なぜか音楽好きな第三世代が多くいた。フォーク、ロック、ブルースというジャンルである。叫児楼をコミュニティとしていた小樽の若者達はロックとブルースであった。また山口が昭和51年に手宮でメリーゴーランドという喫茶店を開店していたが、ここにはフォークを好む若者が集まっていた。いずれもリスナーだけではなく自らバンドを結成する音楽仲間が集っていたのだ。
 たとえば日本でよく聴き継がれている音楽には、1970〜1980年代にリリースされた曲が多い。この音楽には第三世代の若い頃の作品が多いことに気が付く。つまりシラケていたこの世代は、左脳的社会構造ではなく右脳的世界に解放のはけ口を見いだしたのかもしれない。
「なーるほど」と理解する左脳ではなく、「わかーる」と理解する右脳、つまり好き嫌いに理由を不要とする音楽をはじめとしたアートの世界である。
「ノンポリ」「ニッチ」「シラケ」世代のエネルギーの発散の果ては音楽やデザインに向けられた。小樽にはこういう若者があふれていた。

初会合〜メリーズ会合〜
 昭和52年秋、石塚・山口はビート・オン・ザ・ブーンに参加した若者らを集めて、佐々木(恒治)経営のメリーズフィッシュマーケットで初会合を開いた。そこではじめて運河保存のためのイベントの主旨を石塚が説明する。今日のようにコンピューターもない時代で、手づくりのボードを使って必死にその画期性と必要性を説き、若者の賛同が必要であることを訴えた。
 この石塚の問題提起に最も明確に賛同に向け反応したのが、佐々木(一夫)と岡部である。佐々木はアムステルダムの運河再開発に魅力を覚えて運河周辺に叫児楼の立地を探した経緯もあり、また自らもブルースを愛し音楽イベントとしても鼓動が高鳴った。岡部は東京時代の音楽活動の中、日比谷のライブなどで、音楽を楽しむだけではなく、解放や救援など社会的目的を持つライブコンサートなどを経験し、自らもそういう音楽の社会性や社会的機能を探していた。その空白をまるで石塚が埋めてくれたように感じた。岡部が作曲して企画したビート・オン・ザ・ブーン 潮サンバでは、単に音楽の発表の場づくりであったのに対し、この場では自分達で都市再生への役割を与えてくれたと感激したという。
 約20人くらいの無名の若者たちの接点を見いだしたこのこのメリーズ会合で、石塚・山口の提案を受け、佐々木一夫・岡部が明確にまちづくりイベントの必要性を、それぞれののアンテナで自分のものにした。そしてこの会合は以後17年間続くポートフェスティバルの起点になる。
(石井 伸和)