小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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比較論(15) 

手宮と小樽


手宮の長屋
手宮の長屋

手宮の商店街
手宮の商店街

ネームバリュウ
「手宮」という地名は全国の鉄道ファンにとって、むしろ「小樽」より価値があるということを、かつて北海道鉄道文化協議会の創設者から聞いたことがある。いわずもがな北海道鉄道発祥の地、聖地だからである。
 一方、小樽人にとって「手宮」というと、「唯一残っている小樽の下町」、長屋構造の家並みが残り、生命力があり、連帯感があるという意味での下町だ。

手宮人気質
 いわゆる「宵越しの金は持たない」という職人気質が強い。隣の高島は越後、祝津は山県出身が多いが、手宮は中心街同様雑多である。そもそもビジネスチャンスのまちとして栄えた小樽の労働者の多くが住み着いた。港湾、鉄道、漁業、市場などに従事していたのだろう。
 労働者には経営者に成り上がろうとする者と、あくまでも労働の現場を担うことを頑なに保持しようとする者とがいる。「宵越しの金は持たない」気質は後者に多い。ここに誇りの高さがある。逆に経営者でも自ら汗する者が多い。この気質で自立圏が形成され、映画館も飲食店街も栄えた。
 雑多な出自ゆえに労働という媒介こそが絆を強くした。たとえ雇い主でも権力の横暴には反旗を翻す。絆を強める以上の金を要しない哲学的ともいえる潔さと美意識がある。

続手宮人気質
 端から見て無責任に、「レトロの街小樽なのだから手宮は宝の山」と手宮人に言っても通じない。
 文明の不可逆性に対して、文化の不可侵性というものがある。ある便利さに慣れてしまうと以前の不便さには戻りづらいことと、人様の文化の領域には土足で入っていけないという対比だ。文明が如何に進歩しようとも、人々が身を寄せ合って生きていく原点が手宮の文化となり、観光への価値転換を許さない頑固さがまた素敵だ。
「火事と喧嘩は江戸の花」という俗諺があり、江戸時代に生業を求めて全国各地から移民を受け入れた人種の坩堝の江戸の活気をいう。
 手宮もまた「火事と喧嘩」は花だった。労働の多くは物流の流れ作業であり、声が大きく要点を短く伝える癖が生まれ、その結果あたかも喧嘩を売られた感を持つ。くわえて雑多な人種の寄合なら喧嘩になって当然。
 そして木造の長屋であれば、ひとたび火事が発生すれば類焼の度合いも大きくなり、必然的に住民が力を合わせて火消しに動き団結力が強くなる。


手宮の火事 <『小樽歴史年表』明治年代> 
 明治18年 手宮町15 21戸
      手宮町狸小路 56戸
 明治26年 手宮町浜17 27戸
 明治27年 手宮裡町 700戸
 明治30年 手宮 11戸
 明治31年 手宮裡町畑3 10戸
 明治33年 手宮裡町16 12戸
      手宮裡町畑7 5戸
      手宮裡町9 63戸
 明治34年 手宮裡町22 13戸
 明治35年 手宮裡町1 4戸
 明治36年 手宮町25 906戸
 明治37年 手宮町8 17戸
      手宮裡町畑3 168戸
 明治42年 手宮裡町 1戸
      手宮裡町26 1戸
      手宮裡町123 2戸
      手宮裡町23 721戸
 明治43年 手宮裡町畑21 4戸
 明治44年 手宮裡町22 251戸

地形的特性
「1870(明治3)年開拓使は高島郡に色内・手宮・高島・祝津の4村設置、小樽郡に信香…」<『小樽歴史年表』>とあるように、小樽と高島がまだ並立していた頃に遡ってみると、高島郡の繁華街は手宮であったようだ。色内は商い地区で、高島・祝津は漁業地区とすれば、手宮線が敷かれ、かつ労働者を吸収した手宮地区が高島郡のススキノだった。
 現に今日もなお、旧高島郡の人々は「小樽さ行ってくる」という。本稿でいう手宮地区とは、今日の手宮・清水町・末広町・梅ヶ枝町・錦町・豊川町を指し、手宮・梅ヶ枝町・錦町がススキノに該当する。
 明治32年に小樽は区制を実施し高島村字厩を編入した段階で、手宮もまた高島郡から出て小樽区に編入した。いっぽう高島が小樽市に合併されるのは昭和15年である。
<『小樽歴史年表』>

小樽における手宮
 小樽はビジネスチャンスのまちとして一世を風靡した。それは商人達の先見の明によって牽引されたことは事実だが、その影で働き者の功績があったことを歴史は見落としている。手宮に住み着いた働き者たちは働くことに掛け算することなく、働ける幸せと少しばかりの宵待ち金で絆という文化を築いた。文化は見せものではなく生きもの、したがって媚びも不要、来るなら来てみろという素の心意気が似合う。