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まちづくりから学ぶ(3) 運河を守る会とポートフェスティバル

若者参戦前夜その2


昭和初期の小樽運河
昭和初期の小樽運河

石塚氏らが描いた小樽倉庫周辺と運河の将来図
石塚氏らが描いた小樽倉庫周辺と運河の将来図
目に見える具体的な将来像を力に
 小樽運河を守る会の運動が小樽の若者たちと接点を持つのが昭和51年と52年である。
 前述の昭和48年小樽運河を守る会発足後の5年間を第一期とすれば、昭和51年52年という年は第二期前夜といえる。そしてその媒介役を石塚雅明氏と山口 保氏などが担うのである。
 昭和51年の夏、柳田・石塚・菅井(初期北大三人組)らが都市遺産研究所の名で主催して小樽の大國屋デパートの催事場において、「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」を開催し、運河をどのように保存再生すべきかを図面や模型で提案する。
 計画の骨子は、港湾の再開発と一体となった、運河を避けた代替道路と、運河沿いの石造倉庫群を文化施設や商業施設として再利用し、水辺を市民が散策できる環境に整備するものであった。それまでも、小樽運河を守る会の「大運河公園」構想に見られるように、運河を市民生活のなかに生きた街並みとして蘇らせるという視点はあったが、それを目に見える具体的な姿として提案した初めてのものとなる。
 昭和30〜48年に至る高度経済成長が低成長に切り替わった時期、まちづくりも、それまでのスクラップ&ビルド(破壊と創造)の考え方からの脱皮が模索されていた。三人組が、柳田氏の住む日本橋で、歴史と現在が共存する東京隅田川の風景から、過去から連続する新しい風景創造の手法を発見し、小樽運河の将来像の提案に結びつけたのは、その時代の大きな変化の潮流を感じさせるエピソードといえる。
 昭和51年9月に運河を守る会に入会していた山口は、この展覧会をみて、石塚・柳田らと出会い、信条や情緒も大事だが、具体的な目に見える目標を示すことが、より多くの賛同者を生むと確信した。この絵に後年、私も惚れ込み、「こんな運河なら最高だ」と開眼したことを思うと、してやられたと苦笑したくなる。

小樽運河清掃活動
 そして石塚・山口らは、昭和52年5月に、市民や小樽を好きな札幌の友人達に呼びかけ、「運河の大清掃活動」を行う。100人近い参加を得て行われたこの清掃活動は、自分たちの身体で目標とする風景に近づく一歩を踏み出したことになる。これが、「人の訪れることの少ない運河を舞台に若者が集まる祭りの風景をつくれないか」という発想になっていく。

「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」に出品された小樽保存の計画図
「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」に出品された小樽保存の計画図

石塚 雅明
 石塚雅明氏は昭和50年に柳田らと北大の卒業論文で運河を取り上げたのが運河保存運動に関わるきっかけとなる。当時の運河を守る会会長の越崎宗一郎氏(昭和51年10月没)や事務局長の藤森茂男氏(故人)にも取材をする。卒業後は同大大学院に進み、早稲田大学の大学院にいった柳田の誘いを受け前述の運河再利用計画をつくり、小樽運河を守る会の活動にも「目に見えるプランや活動」をと、新しい視点を持ち込む。
 運河保存運動のシンクタンク的な存在となり、前述の「運河清掃」を提案・実行した。当時、運河は廃船が沈没したまま、ヘドロが沸きでたまま、いわば放置され、関係者以外誰もが足を踏み入れない区域になっていたという意味では、100人もの清掃ボランティアが活動したことは、画期的な風景であった。またマンネリ化していた保存運動が、直接興味のない人々の心に波及していく拡大の一歩であったという意味でも画期的といわざるを得ない。
 この昭和52年の清掃活動を皮切りに、ポートフェスティバルなどに繋がっていったのだ。

■参考年譜
 ・昭和51年7月
   「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」
 ・昭和51年10月
   「小樽運河を守る会」会長の越崎宗一氏急逝
 ・昭和52年5月
   小樽運河清掃活動
 ・昭和53年5月
   「小樽運河を守る会」会長に峯山富美氏就任
 ・昭和53年6月
   HABITA(北海道の環境を考える会)
   主催、第1回石造倉庫セミナー
 ・昭和53年7月
   第1回「ポートフェスティバル・イン・オタル」 開催
 ・昭和53年8月
   「小樽夢の街づくり実行委員会」発足
 ・昭和54年6月
   小樽青年会議所主催、第1回タウンオリエンテーリング「歩こう。見よう。小樽ふるさとへの路」開催

<『小樽運河保存運動問題関連年表』 編纂 堀川三郎>

岡部 唯彦
 山口が叫児楼でイベントの提案をしたのは佐々木一夫氏と岡部唯彦氏である。昭和29年生まれの岡部は故郷の小樽を高校時代から離れ、東京の高校で仲間と共にロックバンド活動をしていた。ライブハウス・キャバレー・ビアガーデンなどで、結構なアルバイトができたという。その頃知り合って、今日メジャーになっている中にチャーや久保田麻琴夕焼け楽団などがいる。昭和48年のオイルショックは日本の高度経済成長の終焉であると同時に、音楽界にも影響を与え、アルバイト的気軽さで飯を食うことも厳しくなっていく。これを機に岡部は故郷小樽へ帰った。その後、札幌大学のロシア語学科に進学したのは、五木寛之原作の「さらばモスクワ愚連隊」への興味や極東への興味からだという。そして在学中に3週間ほど極東を放浪する。在学4年の時期に、叫児楼によく出入りして、山口との接点を持つのだ。
 山口の提案を企画化する才能と音楽仲間のネットワークから、自ら「潮でサンバ」を作曲し、ビート・オン・ザ・ブーンという企画名を立案する。潮の「ドンドコザブーン」にひっかけた画期的なネーミングだった。
 ポートフェスティバルと音楽、音楽とまちづくりの接点を担い、「運河保存」というまちづくりのテーマを音楽を通してメジャーにしていく役割を、この岡部が担っていくのである。
 さて、山口は佐々木・岡部の感触がよかったことを受け、次なる根回しに動くことになる。

ビート・オン・ザ・ブーン
 昭和42年に潮まつりを創設し、運河を守る会の事務局長であった藤森茂男氏に昭和52年、山口は若者が集まるイベントの相談を持ちかける。山口は藤森氏の経営する看板制作のアルバイトをしており、藤森一番弟子を自称する。相談の結果、「独自にイベントを主催して、運河を会場にするのであれば、俺がそうであったように、君らにも圧力がかかるだろう。だから潮祭りの港バージョンとして組み入れてはどうか。何故なら海の祭りである潮まつりが、会場の都合とはいえ、花園公園という山でやるのはいかがなものか」と提案され、潮まつり若者企画として参加する手筈を整えてもらった。
 しかし潮まつりにおける若者部隊は、予算も削られ会場も与えられず、結果的に杉本運輸から11トントラックを借り受け、ロングボディの荷台にバンドとお囃子が乗り込み、「潮サンバ」をかき鳴らし市中パレードをした。三波春男の潮音頭に慣れた市民の耳には、ロック調にアレンジしたサンバのリズムと風景は度肝を抜く現象であった。
 山口が描いたまちづくり運動としての計画は未遂で終わったが、結果的にまちづくり運動と若者との接点が音楽を通じて生まれたことになる。
 第二期前夜のプロセスを段階的に把握すれば、石塚の仕掛けとして現場体験である清掃活動と、目に見えるプラン化である展覧会をたどり、今度は山口と佐々木が加わりイベント化を模索し、若者を巻き込むために岡部が媒介となった。新たなシナリオの初期の役者が揃ったことになる。 
(石井 伸和)