小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(2)

運河を守る会とポートフェスティバル
若者参戦前夜その1


契 機
 昭和41年8月25日、道道臨港線建設が小樽市で都市計画決定されたことは、その延長で運河埋め立てが前提とされたことになる。そして昭和48年に運河の手前にあった有幌の倉庫群が実際に取り壊されたショックが引き金となり、同年12月4日「小樽運河を守る会」発起人会が立ち上がった。峯山冨美氏が会長になる5年前のことである。
 この5年間のことを知らず、昭和53年に帰郷した私は、好奇心で労働会館で行われていた守る会の会議に顔を出した。好奇心とはキナ臭さを漂わす火元がそこにあると漠然と感じ、興味本位であったことをいう。

ノンポリ世代
 戦後の廃墟を必死で生きた世代も、その後の団塊の世代も、世代共通のテーマがあった。しかし以後の世代は思想にも政治にもうといノンポリ世代といわれる。この国のハードを戦後派が、ソフトを団塊が築いたとすれば、私たちの世代は隙間くらいしか社会的テーマといえるものがなかった。だから社会に対してしらけていたともいえる。
 ノンポリ世代の私であったが、学生時代に幕末の歴史に興味を持ち、「その頃に生まれたかった」と思うほど狂信的に当時の志士に憧れていた。
 幕末は「くに」、現在は「まち」という直感を抱き、小樽に帰ってきたところに、たまたま運河問題があった。だから興味をそそられた。そしてもちろん、この頃には「まちづくり」などという言葉もなく、運河に関する明確なビジョンもあったわけではない。
 いま考えれば、「公的なものをどうするか」を議論することは基本的に政治の土壌である。それを経済的にあるいは文化的に説く立場から、人は政治に口出しする。いわば「世論」であり「まちづくり」といえる。だから「まちづくり」は「政治」とイコールなのだが、「まちづくり運動」という場合、運動の蓄積が成果となって政治的決定に大きな影響を与えることをいう。
 これから語ることは、意見を持ち、口出しし、なおかつ自らも汗して運動を継続する、つまり「まちづくり運動」の記録である。

諸葛孔明
 今も明確に覚えている。守る会の会議は私にとって場違いであったと。情緒的な議論と寂れた会議室は、マイナーなイメージをさらに助長していた。耐えきれなくなって中座しようとしたとき、後を追って「連絡先を」と聞いてきた人がいた。当時北大の大学院に席をおいていた石塚雅明氏である。昔のインテリがかけていた丸い黒フレームのメガネが印象的だった。私より4歳上でありながら、守る会の会合に私のような若者が出席すること自体不思議であったようだ。
 守る会の会長であった峯山冨美氏が(25号参照)運動の経過で必ず登場させる「北大三人組」とは、この石塚氏はじめ、柳田良造氏と森下満氏をいう。彼らは都市計画の研究の中で実学を志望していたことから、小樽の運河保存運動は絶好のネタだった。ところが、ネタを通り越し、寝食を忘れて没頭し貢献していく存在になっていく。
 事実、守る会の運動のシナリオの多くは、この三人組が描いたといってもいい。私にとって三人組は以後、まるで諸葛孔明そのものに見え、今も同じく尊敬している。
 だが、昭和53年この年の私の守る会への印象は、峯山さんの優しい笑顔と、石塚氏の洞察力のある大きな目のみが残ったに過ぎない。

叫児楼
「くされアイビーお断り」と店頭に張り紙をしていた静屋通りの喫茶店叫児楼は昭和52年当時、喫茶店ブームの中でも石蔵を再利用したばかりか、ブルースのBGMの中で独特のスパゲティを提供し、ジーンズ姿の若者の溜まり場だった。
 店主の佐々木一夫氏(3号参照)はブルース好きの仲間と共に、小樽の港を舞台にコンサートをするべく夢を語っていた。岡部唯彦氏、渡辺真一郎氏らである。
(石井 伸和)