小樽の皆さま、小樽出身の皆さま、小樽ファンの皆さまへ! 自立した小樽を作るための地域内連携情報誌 毎月10日発行
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まちづくり運動から学ぶ(17)

小樽モデル
石井 伸和




小樽モデル
 歴史的建造物を新たな目的で再生させることは小樽モデルといわれているが、この手法が顕著になるまでには様々な模索があった。時系列的にここまでのいきさつを辿ってみる。
 昭和51年、柳田・石塚・菅井(初期北大三人組)らが都市遺産研究所の名で主催した「小樽運河保存のための港湾再開発と運河再利用計画展」では、運河沿いの石造倉庫群を文化施設や商業施設として再利用し、水辺を市民が散策できる環境に整備することを提案した。
 かつてアムステルダムへの旅で運河再開発にインパクトを感じた佐々木興次郎が、昭和52年山口や石塚の誘いに二つ返事で了解したアンテナがあった。
 昭和52年に小川原 格が『読書新聞』に「歴史的環境保存からの決別」という挑発的題名の投稿をし、一般通念上「保存」というと博物館的保存しか意味しない中で、凍結保存から動的保存を訴えている。
 昭和53年に駒木定正、狩谷茂夫、山之内裕一らハビタ札幌が運河沿いの木骨石造の前野商店麻袋倉庫を会場に開催したシンポジウムから、新たな都市再生の手法としても模索された。
 さらにポートのテーマそのものが、運河という手の施しようがない空間にイマジネーションを沸かせて、倉庫や艀の再利用をひとつひとつ実践してきた。


 これらの運動の蓄積を研究者や文化人が評価し、全国の町並み保存運動家を奮い立たせ、小樽市民が拍手を送ってきた。このような現象は高度経済成長を経験してきた国民からは、まるで異次元に映っただろう。スクラップ&ビルドによって、より高く、より輝き、より豪華な志向を国民の大多数が展望していたからだ。だから汚れた古い運河を保存しようなどというニュースに、だれもが「えっ?」と懐疑心を持った。この懐疑心が好奇心になり反省を喚起させ、「小樽の個性もいいね」という価値観に変化し、「小樽のように」という認識が「小樽モデル」となってきたといってもいい。
 そして若者のリスクをかけた投資として、昭和50年「叫児楼」、昭和51年「海猫屋」、昭和52年「メリーズフィッシュマーケット」が先陣として誕生し、昭和58年に北一硝子三号館が堂々オープンし、一気に小樽観光開発に小樽モデルが顕在化する。
 このモデルは無論、小樽固有とはいわないが、小樽では群れを成したという意味で固有性があるし、このモデルは後発の町並み保存運動に大きな刺激と有望な選択肢を与えてきたのは間違いない。長浜の黒壁、大阪の町屋再生、舞鶴の煉瓦蔵再生、加賀橋立町の町並み保存などである。


 従来、博物館や記念館のような箱に囲われた歴史保存や、京都のように神社仏閣が歴史的建造物であると同時に、今日も神社仏閣として観光名所となるのとは異なり、新たな建物活用をすることにより、新たな生命を持ち、未来へ継承するという再生手法こそが小樽モデルなのだ。小樽モデルのそれらは、運河も倉庫も銀行も社屋も当所建てられた目的ではなく、新たな目的を持って生き続けている人々の智恵といえる。